6月28日(土)

(1)
リアライゼーション最終日。会場正面の左右二面のスクリーンにはパルスが投影されている。心拍にしろ、脳波にしろ、可視化され、知覚可能なものとされた〈生命〉のしるしが逆に、〈生命〉の終わりを〈測定〉するものに変容するという転倒。

(2)
誤ってこぼした消毒液のにおいが会場にかすかに漂う。ギャラリーAは強制換気ができないため、臭気を伴うものだけは使わないでくれと要請したはず、とICCから非難される。

(3)
模型のコンセプト・製作の中心となったY医師のカルテなどを参考に、本日のギャラリー・トークのためのシナリオを作成する。

(4)
当初、医師団は包帯スクリーンの下にスピーカーおよび来場者が座ることを提案したが、ICCの意向で、スクリーンの手前に椅子を並べ、スピーカーはコンピュータ・解剖標本が並ぶ手術台のかたわらで話すことになる。

(5)
数十名の観客が集まったところで16時にギャラリー・トーク開始。まず、T医師が会場構成のコンセプトなどを30分弱で説明した。その内容は こちら を参照。

(6)
会場からの質問を受ける。丸山洋志氏から海市展をめぐる、あるいは身体と都市をめぐる議論が精神分析をめぐる思考と重なる原因について。T医師は、それは端的にこのイベントがあくまで磯崎さんという中心の一者とわれわれという関係のなかで展開されていること、そこに転移をはじめとする葛藤の生じる構造が書き込まれていることによると指摘した。精神分析のタームを使うかどうかは、しかし、決定的な問題ではないとも返答した。先週のポロ=ムサヴィ氏の案は、そうした〈(日本)共同体〉のオイディプス的葛藤とは一見したところ無縁な、その意味で〈すがすがしい〉ものではあったが、テクニカルにのみ問題を設定し、〈インテリア/エクステリア〉、〈プライベート/パブリック〉といった二進法の機械によって形態生成を試みるというそのアプローチの姿勢の、あまりにナイーヴな非政治性を、T医師は6月21日のギャラリー・トークで批判している。

(7)
丸山洋志氏から重ねて質問。丸山氏はフーコーヤラカンといった固有名をあげて、われわれの身体観があまりに西欧近代のそれであり、そのアプローチが自虐的なものではないか、と述べられた。T医師は、われわれの身体を規定している政治には西欧近代の知がすでに深く書き込まれており、それを無視することはできないこと、われわれの身体そのものがそのような知によって構成されたものであること、従って、生命倫理を語るのに、〈風水〉や〈気〉といった概念に(それらを無視するわけではないにせよ)性急に逃げ込むことはできないこと、それこそが自分の〈倫理〉にほかならない、と返答した。これに対して、司会者からは議論が(本論とは無縁の)細部に関わっている、といったようなコメントがあった。また、最近の建築家たちの読書傾向が分かるとの感想も。

(8)
次週担当の渡辺真理氏による会場構成の印象に関するコメント。包帯スクリーンに投影された映像がドラッグのような効果を与える、という発言があった。

(9)
磯崎氏は入院しているご家族の病院から会場に遅れて来られた。コメントを求められ、病院から再びヴァーチャルな病院空間へと身を置いて奇妙な気がしているとの第一印象を述べられた。会場を十分見ていないとの但し書きつきで、シグネチャーズがデリダであるとすれば、インターネットはドゥルーズだ、との見立てを述べ、フーコーヤラカンといった名と合わせて、この会場全体が一つの知の〈病い〉を表しているのかもしれない、と言う。

(10)
ところで、T医師のスピーチをご覧いただければお分かりの通り、われわれはこれらの思想家の名前など、このギャラリー・トークの場では一度も口にしていない。口にしたのは丸山氏であり、磯崎氏のほうである。われわれの分析がこうした思想と無縁なところで展開されたとはいわないが、しかし、思想の図解をやったつもりもない。思想を論じるならば、読書傾向といったレベルで事柄を処理すべきではないし、単純な見立てだけで〈病い〉などという比喩を用いるべきでもなかろう。

(11)
質問の方向性に引きずられ、肝心のわれわれの制作物そのものに対するコメントが聞けなかったことは残念だった。丸山氏の質問は事柄の本質に関わる部分を含んでおり、決して枝葉末節の議論ではない。しかし、その質問の一部を展開して、あたかもわれわれが知的ゲーム(という病い)をおこなっているかのようなギャラリー・トークの進行のなされ方は、きわめて後味の悪いものだった。直ちにその場で抗議すべき事柄であった。その機会を逸したため、ここに記しておく。

(12)
海市が政治的文脈から都市計画の方法論、その背後のイデオロギーまで、さまざまなレベルを抱え込んだプロジェクトである以上、われわれのアプローチも多元的にならざるをえない。多様な言説の図解が会場の模型やプロジェクションではないし、その逆に模型やプロジェクションの説明として言説を展開しているのでもない。両者は複合的な、矛盾を含んだアッサンブラージュを形成している。それが矛盾を回避できないのは、海市そのものが矛盾なき統一体ではありえないからだ。一夜で消え去るこの場は、そんなコンフリクトを身体によって経験する舞台だった。

ギャラリー・トーク1
ギャラリー・トーク2
ギャラリー・トーク3
ギャラリー・トーク4
スクリーン上にパルス
一坪の鏡による黒い太陽
トーク後の来場者たち1
トーク後の来場者たち2

back to index