自然生成性というイデオロギー、民主主義のリミット

田中 純


 海市のメタ・プランニングのレベルにおいては、すべての前提である、マスタープランに代えて「無数の他者からの介入によって自然生成する都市」という発想そのものに、いわば〈自然生成性のイデオロギー〉とでも呼ばれるべきものがあって、それは「多数のファクターを算入して(コンピュータによって)生成される形態」という、いわゆるヴァーチャルアーキテクチャー一般に流通している観念にも通じている(cf. 拙論「コンピュータの屍肉」)。しかし、果たしてそのような形態が、本当に歴史的時間の濃縮を実現しえているかどうかはきわめて疑わしい。そこに見られる一種のウルトラ民主主義、都市計画の直接民主制のもつ意味は、文字どおり〈政治的に〉問われなければならない。ヴィジターズとは実は、マスター(大文字の権力)であることを誰にも許さず、権力の場を空虚なまま保つ擁護者として振る舞うことによって、互いに相手の首を際限もなく切り落とし合うウルトラ民主主義者たち、つまりジャコバン派の恐怖政治のシミュラクルなのではないだろうか。海市で問われているのは、いわば民主主義のリミットにほかならないのである。

 そしてさらに、この擬似的自然生成の過程をフリーズさせ、一定の形態にとどめる最終的な決定因とは何か、すなわち、誰が、何が、いつ、生成過程を停止させるのかについて、あるいは、この問いに応答する〈責任〉はどこに位置づけられるのかについて、その答えが要求される。こうした問いかけは都市を特定の主体の創造物と見なすことではない。むしろ、ここで展開されている民主主義が、無数の他者の介在によって生成し、際限のない変容へと開かれて安定しないプロセスであるからこそ、それに対してまったく無根拠に「止まれ」という命令、「私はこれを望む」という命令を下す誰かが必要とされるのではないのか、という疑問なのである。固有名をもった建築家が召還されるのはおそらく、この空虚な権力の座を埋める存在としてなのだ。

 海市計画を構成する言説が無根拠でしかなく、計画の手がかりとなる何ものも存在せず、だからこそ、海市が蜃気楼にほかならないことを、デミウルゴスもわれわれもあらかじめ知っている。しかし、〈近代〉とは実はいつだってそんな無根拠性のうえにこそ企図されてきたのである。海市という〈もうひとつのユートピア〉の背後には、つねにすでに失われたそんな近代のユートピアが幽霊のように寄り添っている。海市が墓であるとしたら、それは何よりもまず、歴史におけるトラウマ、夢、破局の痕跡としてのこのユートピアの墓標でなければならない。この近代という死者は、それがトラウマ的な出来事であった限りで、決して完全に葬り去られ、鎮魂されることはなく、幽霊としてさまようことをやめることもまた、ありえないのだとしても。

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