医師としての建築家

五十嵐光二


必要なのは「内科治療か外科手術か」。パリを想定して試みた独自の都市計画案に おいて、それまでこの都市に対してさまざまに加えられてきた歴史的な都市計画を 「内科治療」(予見的規制)と「外科手術」(幹線工事)へと分類してみせた上で 、あらためて都市構造の根本的な改造の必要性を説くル・コルビュジエは、そこに 上述の問いをもって、患者の生命が委ねられた医師としての――不可避的に倫理的 たらざるをえない――決定的な判断を下そうとする。老いたパリはもはや一刻の猶 予もならない程深く病いに蝕まれており、ゆえにいまや巷間においても都市計画に よる救済が最大の関心事として論議されているのだが、まさにそれこそは、その処 置いかんがただちに都市の生死を決することになりかねないがために、ロマン主義 的迷妄を排して厳密に科学的な方法が求められねばならないのだという。「われわ れの存在の枠組み」である都市から「腐敗した骸骨」を取り除くことを急務とする 都市計画においては、「大都市の病気に特別の関心を払うことが重要である。それ はもっとも必要なことである」という。「都市計画は幸福あるいは不幸を気遣い、 幸福を創り出し、不幸を追い払おうとする。これこそこの混乱の時期における尊い 科学である」。彼にとって都市計画とはすぐれて健康にたずさわるものであり、ゆ えに人間の幸福に大きく与るのである。

元来批評活動に出自を持ち、アカデミーを激しく論難しつつ、新たな建築体系の創 設者となったル・コルビュジエにおける医学的メタファーの偏重は、単に論争上の 効果を狙ったギミックであるよりはるかに、建築の現状を「病い」と見做して、そ の「治療法」を検討する方法論的反省にこそ発する必然的な要請なのであり、「病 い」を、そのような治療可能な「病い」であると「診断」するその視座こそが、旧 来の体系との決定的な切断をもたらしているものに他ならない。建築を「明瞭な有 機体」と見做し、その「身体」のあり様を記述する夥しい医学的メタファーが横溢 する彼のテクストの、なかんづく「技術者の美学、建築」と題された論説において は、まさに健康をめぐって、技術者という「健康的」な存在とは対蹠的な位置に置 かれた、アカデミックな建築家の「不健全」さに対する嘲罵の限りが尽くされるの であるが、『建築をめざして』では冒頭に置かれたこの章の中で、彼は不健康な住 宅をつくり続けているアカデミシャンたちを藪医者になぞらえつつ、「住宅はちゃ んと立っていなければならない。そのためには、術の心得のある人間[医師](homm e de l'art)に頼らなければならない。術とは、ラルース辞典によれば、構想の 実現にあたって知識を応用することである。今日では技術者が知っているのであり 、倒れないようにするための仕方、暖房、換気、照明の仕方を知っているのだ」と 述べている。周知のように、ル・コルビュジエは技術者と建築家との最終的な区別 を保持するのだが、それにしたところで、建築家はまず技術者なのであり、住宅が 「ちゃんと立って」いること、及び暖房・換気・照明といった、つまりは技術者が 行う構築の領域が十全に満たされることなしには、決して健康はありえず、すなわ ち幸福を実現するものたる建築も不可能だというのである。 「効能ある治療法の選択」にあたる医師ル・コルビュジエが、「病い」に陥った都 市の診察において看取するのは、無秩序に分裂した身体という都市の病態である。 都市はもはや全体としての統一性を失い、異常発現する「細胞」(個々の住宅)の 集積にすぎない。それゆえ、治療としての彼の都市計画は、都市に系統付けられた 明確な構造を与えること、すなわち、「分類される器官と輪郭を有する一つの身体 」としての姿を取り戻させることを主眼とする。この観点において、諸器官の有機 的連関が構成する統一的構造体としての解剖学的=機械論的身体がモデルとされる のであり、このアナロジーに基づき、調和的身体としての都市が医学的メタファー を駆使して描き出されることになる。彼が提示する都市計画においては、自動車交 通網の整備が「都市の心臓と動脈」の「充血」を解消し、高層化による緑地面積の 増大によって「都市の肺」は「窒息」を免れる。いたるところに「癌の瘤」が発生 した廊下状街路に代わるのは、「新しい有機組織体、細長く続く工場のようなもの 、複雑精巧な多様な器官の開かれた貯蔵施設」としての街路である。 このようにル・コルビュジエの都市計画の根幹をなすのは、徹底したサーキュレイ ションの整備である。とりわけそれは、移動・物流の経路としての現代の交通形態 に都市を適応させることへの強い主張として現われるだろう。「自動車が古い都市 を殺してしまった」ことから、新しい交通手段(「四つの交通路」を通行する機械 的移動手段)の上に成り立つ都市という構想は、彼が立案するあらゆる都市計画を 規定しているものであり、いずれその理論的定式化は、「一つの血管系と呼吸器系 を構成する」とされる「7vの規則」において、より細分化されたレベル相互の関 係づけとして行われることになるだろう。

緻密にはりめぐらされたネットワーキングがつくる円滑な循環の場こそが、ル・コ ルビュジエにとっての都市なるものである。都市は無数の力線が織りなす力動的な 場に他ならないのだが、そこに調和的秩序が組織立てられていないために、それら は互いに錯綜・衝突・齟齬し、そこで生じた停滞が、病を示す徴候として結果的に さまざまな形で発現しているものなのである。停止した都市の危機的状況、あるい は、「運動がわれわれの法則」であり、「停止したものは腐敗する」という「生命 の定義」に照らして言えば、諸器官の機能不全によって死に瀕した身体である都市 の危篤状態はまた、ル・コルビュジエお得意の比喩によって錆ついて焼き切れた自 動車のエンジンにもなぞらえられもするのであるが、こうした状況の克服は、固定 された車軸を中心として回転する車輪のように都市の循環構造をつくりあげること で可能となる。そうすることによって「麻痺をおこした部位に運動を取り戻させる 」というのである。

ところで、こうしたサーキュレイションへの並外れた強い関心から伺えるのは、ル ・コルビュジエの建築思想の核心にあるエネルギー経済論的な概念である。「生き た有機体」である建築・都市が調和的身体としての姿を現すのは、エネルギー的均 衡状態においてであり、そのような効率的なエネルギー収支を行う機構として、有 機体が外界環境への適応を通じてつくりあげた生存のための複雑精巧なシステム、 すなわち諸器官・諸組織の有機的連繋が構成する機能複合体としての身体が必要と されるのである。建築・都市においても経済性はいやおうのない身体原理である。 テイラー・システムに代表される工業の合理化・標準化をモデルとしつつ、このよ うな「経済的なもの」が「建築の心臓を鼓動させるにいたってないので、建築は病 み、国家は建築の病いを病んでいる」のであるとル・コルビュジエは断じる。 「渦巻き」であり、「運動する力の現象」であるところの現代の都市は、もはや過 剰なエネルギーを捌ききれず、その回路にはいたるところで断線やショートが生じ ている。依然として都市が身体であるとしても、それはいわば無軌道に暴走するエ ネルギーに駆られて、分裂し寸断された身体なのである。ル・コルビュジエにとっ て建築はこのようなエネルギーを整流し、調和的秩序を実現する生産のシステムな のである。「病い」の身体、あるいは「怪物」的に奇形化した身体に代わって、新 しい健康な身体をつくりだそうとするル・コルビュジエはこのように宣言するだろ う。「怪物――「現代的」といわれるわれわれの都市――を生み出すことになった エネルギー、このエネルギーは自身内臓す躍動力により強力に増大し、やがて不統 一を駆逐し、古色蒼然たる道具類を破棄し、そのかわりとして秩序を導入し、濫費 を追放し、効率性を課し、そして美を生み出すでしょう!」 しかしながら、「生きた建築、生きた都市計画の諸性質をあつかう」ものである「 生物学の用語は建築や都市にも立派にあてはまる」がゆえに、身体器官のメタファ ーをもって記述されるインフラストラクチャーが都市の物理的なサーキュレイショ ンを確保するものであるとはいえ、それがただちに「美を生み出す」こととはなり えない。正常に機能する諸器官を有機的連関のうちに配置することは、むしろ、統 計や計算といった客観的事実の分析から出発して、正確な論理によって同様の結論 に導かれる技術者が従事すべき作業なのであって、いうなれば専ら生物学的・解剖 学的レベルにおける身体としての都市を対象とする構築の範疇である。建築を、構 築を踏まえつつもそれを越えるものと規定するル・コルビュジエは、この弁別に対 応してはっきりと建築の身体に二つのレベルを設定している。建築には「生物学的 現象」と「造形的現象」とがあり、構築によってつくられる「生物学的現象」から 、「造形的現象」へと「飛躍」するとき(それが彼の言う「決定的瞬間」なのであ るが)、はじめてそれは建築たりうるのだという。建築家が関わるのは、造形的な ものとしての建築の身体であり、美や調和こそが建築家固有の領分なのである。 生物学的身体/造形的身体の二項対立は、適応のための器官である「都市の機構」 と、「生存のための実際の動作には用の無いスペクタクル、端的には詩というもの 」である「都市の魂」という対照をとって、彼の都市計画においても現われる。こ こで言われる「都市の魂」とは、それ自身を目的としてつくられるモニュマンタル な建造物でも、ましてや都市大衆の心性として擬人化された時代精神のようなもの を指すわけでもない。それは「詩」という「知覚可能なイマージュ間に協和的に打 ち立てられた関係」として、「有用なもの、したがって、いずれは滅びうるもの」 に他ならない「都市の機構」が実現しなければならない形態的関係(幾何学的形態 )なのである。

そして、「この機構の調和化は、われわれの幸不幸の秘密を握る情感的組織に結び ついた深い決定的な感覚の側にある」とするならば、自ら医師に擬して診断と治療 を行おうという建築家ル・コルビュジエの対象となるのは、都市という肉体が患う 器質的な病いもさることながら、解剖学的レベルにおいて病因が同定されうるその ような病いとは別に、まさに情感にこそ関わるものとしての、感官を通じて知覚さ れる身体のあり様をめぐって見出される病い、イメージとしての身体を舞台として 現出する病いなのではないか。

まさにこの観点に立って、ル・コルビュジエの治療は徹底した表象上の操作を必然 化する。大地を測定する術としての幾何学は、その視覚的形式性によって、この治 療に絶大な意味を待つ。それ自体が厳密な秩序体系である幾何学は、知覚容易な形 態として感覚生理学的に効果的である。すなわち、視覚的な心地良さが、幾何学秩 序を承認させるのに大きな武器となるのである。幾何学秩序によって分節された身 体を獲得することで、都市は刺激を鎮静化し、平静さを取り戻すのであるが、この ようにして得られる身体感覚、すなわち生理的快の実現を基礎として都市の身体を 組織しようという志向は、適応のための諸器官を有機的に配列するという治療と基 本的に同じ枠組みにあるといえる。つまり、安定したエネルギー状態・均衡状態の 回復であり、快の状態としての身体的健康がその目的である。 ところが、構築を越えるものとしての建築をめざすル・コルビュジエにとって、建 築的感動として実現される美や調和とは、生理学的な快の感覚には決して回収し得 ない過剰な感覚性を帯びているのであり、それは、幾何学の初源的形態が「感覚に 衝撃を与える」ことによってもたらされるものとして、むしろ恒常原則に反しさえ するのである。そして「なくてはならない余分」と記されるこの建築的=芸術的感動 こそが、合理的理性に先立って人間存在の根底に存在する絶対的な情感に通じてい ることが説かれるに及んでは、構築による生物学的身体から建築という造形的身体 へという「飛躍」に設けられた「順序」を揺るがしてしまう、まさに「決定的瞬間 」としての建築的感動に見られるような、彼の建築理念の中心にある極めて錯乱的 な時間性をも露呈してしまうのであるが、このとき、従来の体系においては手の施 しようのない、というより、そもそも病いとして見取ることさえできない「病い」 を構成することで、その治療方法としてのあらたな体系を創設した医師ル・コルビ ュジエが必然的に抱え込まざるをえない決定的なアポリアをこの上なく明白にして しまうだろう。

医師という含意を強く帯びた「術の心得のある人間(homme de l'art)」という語 に含まれる(医)術としての‘art’と、感動という「なくてはならない余分」を実 現することにおいて、まさに「人間にとってなくてはならない」ものたる芸術(art )との微妙な緊張をはらんだ差違こそが、同時に医師/芸術家たらんとする建築家 ル・コルビュジエが立たされた困難な境位を示すものだと言うことができる。それ でもなお、彼は「何にもましてまず物質的必要を満たし、ついでそれを生気づける 純粋な情感に応え、人間に快適で美しいもの、人間の幸福そのものを条件づける創 造と秩序の感覚をつくらせる建築体系」を主張せざるをえない。それは、いみじく も「われわれの良識に作用する」とされた「生物学的なもの」、すなわち健康な生 物学的身体をつくる構築という術から始めなければならないとする医師としての倫 理の表明に他ならないだろう。そして、それこそが、様式・装飾というイメージの 病いに憑かれた建築の身体に直面しての、唯一可能な戦略的決断なのでもあるが、 しかしそのような「良識」的判断そのものが、幾何学を欲望の対象へと転化させる 操作に頼らざるをえなかったように、建築の身体とは欲望するものであり、それゆ えに、いともたやすく「病い」に陥ってしまうことができる存在なのである。 都市計画を主題とするル・コルビュジエの記念碑的なマニフェストの書『ユルバニ スム』では、それ自体ほとんど偏執的ともとれる幾何学への信念が見受けられうる 部分が少なくないが、その「前書き」において彼自身が体験した奇妙な出来事が、 異常な強度を伴う記述において明かされている。彼が報告するのは、都市の幾何学 秩序を論じたこの本の仕上げのために、夏休み中居残っていたパリの静寂を、突如 として打ち破った交通の破壊的な激動である。この交通の激流、「一種の天変地異 」のさなかにあって、しかしながら、ル・コルビュジエの身体は奇妙にも「悦び」 を感じてしまう。「自動車、自動車、速い、速い!人は虜になり、熱狂がわれわれ をとらえる。悦び。輝く車体がヘッドライトの下できらめくことを見ての熱狂では ない。力の悦びだ。力、力強さの真っ只中にあることの素朴で無邪気な悦びだ」。 「嵐に増大した奔流」のような「力」そのものと化した都市、そこではエネルギー の円滑なやり取りを行う諸器官や外縁を画定する輪郭といった、そのような一切の 介在物を排して、純粋なエネルギーの塊としての都市身体のあり様が垣間見られて いるのであり、そして、この「力」の中で、ディオニューゾス的な「悦び」に陶酔 しているル・コルビュジエ自身の身体、無秩序な都市の破壊的な力に翻弄されつつ も、その力と一体化してしまっている身体が姿を現しているのである。 そして、このような暴力的な力に触れて畏怖しつつも愉悦を感じてしまう身体のあ り方は、眼によって明瞭に測定される幾何学の形態が突如感覚に衝撃を与え、身体 という「共鳴盤」を振動させるという「決定的瞬間」における建築的感動と、実の ところ紙一重ほども違いはしないのである。感動に打ち震える身体、それはもはや 調和的な有機的身体と呼ぶことのかなわぬ身体であり、身体の有機組織化を通じて 幸福の実現することを使命とする建築が、自らを不可能性へと転じてしまう極点に おける姿なのである。

ル・コルビュジエが描き出す調和的な都市において人間の幸福の状態として夢想さ れる建築的感動が、その身体的なあり方を通じて、無秩序に荒れ狂う都市の脅威と 密かに通底しているとしたら、まさに身体の健康に関わる科学としての建築・都市 計画とは、そもそもがパラドキシカルなものであり、このパラドクスを自ら引き受 けることにおいて、いまだ在らざる「ひとつの建築をめざして」、ル・コルビュジ エは「建築家」たらんとしたのだと言うこともできるかもしれない。 それが生物学的現象であることはたしかだとしても、個体としての自己同一的な安 定性などはどこへやら、狂ったような運動を見せる都市という身体の診察に際して 、その無秩序を嫌悪しつつも、つい身体的に感応せざるをえない医師としての建築 家ル・コルビュジエが、完璧なサーキュレイションに支配された都市を治療として 提示する他なかったという命運は、医学自体が生命や身体をめぐって決して確定的 な視点を持ち得ない状況である今日においてなお、有機的生命体が建築や都市にお いて参照されるとしたら、極めて示唆的であるように思われる。ことに、人・物/ 情報/〈気〉の三つの位相における交通の循環によって、常時生成され変貌してい る「渦巻き」として構想される海市においては一層深い問題を提起することになる だろう。とりわけ「浸透膜で保護された細胞」というメタファーで表現されるその エネルギーの循環回路としての性格が、「刺激を感受する皮膜を備えた生きた小胞 」をモデルとして、快感原則を越える死への欲動を語るフロイトの謎めいたテクス ト「快感原則の彼岸」をいやおうなく連想させてしまうことになるのであれば。

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