ギャラリー・トーク 6.28

田中 純


 海市展へヴィジターズのゲストとして招待され、磯崎さんに「デジタル・アーキテクト」と名づけられながら、私自身はもとより建築家でもアーティストでもないわけです。建築や都市計画の既存のテクニカルな解決方法や洗練されたアーティスティックなプレゼンテーションがそこで求められているのでないとすれば、「海市」展が単なる都市計画の再現=展示ではなく、インターネットをはじめとする電子メディアを最大限に活用した実験であるという独自な意味を批評的に分析しつつ、それを展示にフィードバックすることが私のなすべきことであると思われました。とすればそれは単にヴィジターズ模型の改造にとどまることはできない。展示すべてにわたっての介入にならざるをえません。批評的な、つまりクリティカルな分析はつねに、危機の分析であり、海市展にある種の危機的な病のしるしを見届け、それを臨床的に、クリニカルに分析することです。われわれはそこでこの出で立ちのように、そして、それは鵜沢さんのセントラル・サーヴィスの制服を引き受けた連歌でもあるわけですが、〈医師〉としてふるまうことにしました。〈われわれ〉とは私自身がその一部である、白衣や手術着を着た医師団という、共同製作のグループのことです。

〈医師としての建築家〉という自己イメージは恣意的なものではなく、建築の近代においてきわめて根強く作用しているものです。ル・コルビュジエは、自らを医師に見立て、不健康な住宅をつくり続けているアカデミシャンたちを藪医者になぞらえつつ、無秩序に分裂した都市の病める身体の治療を建築の使命としました。われわれはこの近代の伝統に文字どおりに従っているのです。われわれは都市を切開し、患部を摘出し、都市の身体を包帯で縫合し、何が都市の死であるかについて議論しようとしました。事実、初日の作業は、古谷さんが都市に埋め込んださまざまなオブジェを切開手術して取り出し、分割されたヴィジターズ模型を縫合することからはじまりました。

さて、われわれは先週お話したように、プロトタイプをか細い臍の緒(つまり二本の橋)でつながれて海に浮かぶ胎児として見ることから、製作をはじめてみました。プロトタイプを単純に〈島〉と見なすのではなく、この臍の緒の意味について分析することをしてみたわけです。この胎児はいまだ生まれておらず(おそらく生まれない)海市というユートピア、近代のユートピアという生まれなかった夢の屍体の表象でもあります。「30年前に死んだ近代のユートピア」と磯崎さんはおっしゃいますが、しかし、その死は確認されているでしょうか。その屍体は正しく埋葬されたでしょうか。正しく埋葬されなかった死者はゾンビのように生と死の狭間をさまよいます。現在、アジアの、例えば珠江地帯で進行している開発計画は、そんな死んだユートピアの回帰、死者の回帰現象であるように思われます。もうひとつのユートピアを構想することより、この死にきれない死者をもう一度想起することが必要でしょう。

われわれの展示はこの包帯を張った空間、そこに投射されている映像とその仕掛けをなす鏡および鏡の影、入り口付近でのコンピュータの解剖とパーツの標本、そして、からみあった黒電話からなります。

 われわれがこうした展示でおこなおうとしたことは3つあります。
1. プロトタイプ模型という基底面の拘束力を脱構築し、それを散逸していくような、か弱い〈イメージ〉に変容させてしまうこと。今、包帯のスクリーンに映写されているイメージのように。
2. 〈島〉という表象を無効にするような、アジアのこの地域、珠江デルタ地帯を支配している連結とサーキュレーションの欲望、香港・マカオ返還を控えた中国の帝国主義的な欲望、無限拡張の欲望にダイレクトに接続し、その運動を過激化したあげくにどんな風景が出現するかをシミュレートすること。このためにはレム・コールハースたちによる珠江デルタ地帯の調査報告が大きな刺激になりました。ル・コルビュジエがそうであるように、完全なサーキュレーションへの欲望が近代の欲望であったとすれば、このようなシミュレーションは近代のユートピアの夢を過激化することにほかなりません。
3. インターネットやコンピュータ・テクノロジーをめぐる「誕生期のメディアの楽天主義」に対して、電子メディアが透明な媒体などでは決してなく、固有の物質性、ほとんど肉体的ともいえるような官能性をもった存在であることをあからさまにすること。これは海市展というよりもICCそのもののコンセプトに対する批評です。

1.〜3.すべてについていえることですが、われわれは模型なり、プロジェクションなり、インターネットといった表現メディアがこの展示空間で置かれた枠組みを、可能な限り変えて、相互に関係づけることを目標にしました。つまりそれは表象のメディア、あるいは都市計画の表象そのものに対する批評であろうとしたわけです。

1.のプロトタイプの拘束力について述べれば、連歌の最初の岡崎さん以来、プロトタイプ模型という基底面の存在は繰り返し問題視されてきました。われわれの展示で、プロトタイプ模型は位置を変えられ、ヴィジターズ模型の向かいに置かれて高さを同じくされます。ヴィジターズ模型はすでに裏返されているので、プロトタイプとヴィジターズは鏡像関係、あるいは双子の関係にあります。模型の高さは視線の高さです。そしてそれらはまず、壁を突き破ってきたような包帯の一群によって縦断され、覆われてしまいます。この包帯は模型と模型の間に、隙間がところどころに空いて、きわめて脆弱なスクリーンを形成する。空中にはプロトタイプ形の〈一坪の鏡〉が吊され、プロジェクターの光を反射して、映像をこの包帯スクリーンに映し出す。胎児に始まる映像は海市のコンセプトの一つでもある自己生成性をメタファーとして、細胞分裂やコンピュータ・チップ、都市の航空写真、成長する茸や蟻の巣、あるいはプロトタイプ模型の接写映像などからなっており、いずれも増殖と無限拡大を志向するオールオーヴァーな平面的な映像であって、それがプロトタイプ形に切り取られて投影されています。そして、逆に通常のスクリーン上には黒い鏡の影、プロトタイプ形の影が、あたかも日食による黒い太陽のように浮かんでいる。
 包帯は光を通すので、包帯スクリーンの下から映像を眺めることもできます。というよりも映像の全体像は下に入って、寝転がらなければ見ることができない。必然的に観客は胎児のような姿勢で映像の海に入り込むことになります。
 プロトタイプの黒い影は、いわば映像という図の中央に空いた黒い穴です。強固な基底面として、都市計画がそのうえで繰り広げられる〈地〉としての模型の形がもつ拘束力を、その黒々とした存在感によって示している。しかし、一方、プロトタイプ形の映像は、か弱く平面的な、あるいはマルセル・デュシャンのいうアンフラマンス(極薄)のイメージ、しかも自己生成するイメージとして、包帯スクリーンの表面上で震えている。海中から見上げた水面のように。プロトタイプ模型が包帯で覆われて埋葬されたとき、プロトタイプは黒い影と散逸するイメージへと、双子のように分裂して、その本質をあらわにするわけです。

一方、ヴィジターズ模型において包帯は、もっとも基底的なインフラストラクチャーを構成するものとして、いわば〈インフラの海〉のようにオールオーヴァーな面を形づくっている。この包帯インフラに対して、緑のスポンジによって表される別のさまざまなインフラが、織物のように〈都市織物(アーバン・ファブリック)〉を織りなしていく。基礎的インフラが海のように広がっているからこそ、緑のインフラ蛇は縦横に展開可能です。限定された境界を持つ基底面上(プロトタイプのような)にゾーニングがほどこされるのではなく、どこになにがあってもよい可能性の海としての包帯インフラを縫って、短冊状に裁断されたゾーンが織り込まれていく。このゾーンは無限延長可能です。コールハースのレポートのなかでもっとも興味深いイメージは、たどり着く先がいまだ未定のまま建造されている橋、行き先が?になっている橋のイメージです。そんな橋としてのゾーンとお考えいただければいい。何の脈絡もなく、高速道路のメガストラクチャーが都市をつなぎ、あるいはそんな都市の成立以前から、未生のその都市を目指して作られる橋。もはやそこに建築とインフラの区別はない。橋としての〈インフラ建築(Infrarchitecture)〉が他の都市を目指して作られ、やがてその橋と橋との織物こそが都市を構成するにいたる。

これは近代のユートピアである完全なサーキュレーションを地球規模で実現するものです。それがアナクロニズムであることは承知のうえです。おそらくそこには無数の問題が、無数の病が発生する。だから、このサーキュレーションへの欲望に対して、良きにつけ悪しきにつけ、われわれは医師として介入せざるをえない。医師としての介入を放棄して、「自然生成性、自己生成性」ということはできない。建築家が医師であることは避けがたく、むしろ、その医師がもつべき倫理が問題でしょう。いわば都市の生命倫理(バイオエシックス)が問われなければならない。これは都市の擬人体主義と揶揄されるかもしれませんが、しかし、臓器移植をめぐって脳死が人の死であるかどうかが問われる現在、人体とは、では、何でしょう? 有機的統一体としての人体がいまだにわれわれの人体イメージでしょうか。そうではなく、人間身体の位相そのものが医学という知の現場で変化しているのではないか。都市の生命倫理はそうした人体の変容をも視野に入れなければならないでしょう。〈風水〉や〈気〉といった漢方医学ばかりをテーマ化することは、現代における都市と人間の〈身体〉を取り巻く〈政治〉を見失うことになると思います。

このように包帯は映像のスクリーンとして、いわば縮尺的には1分の1でありつつ、ヴィジターズ模型においてはインフラを示す500分の1の構造体でもある。それはプロトタイプを埋葬しつつ、プロトタイプの幽霊のような映像を映し出すスクリーンでもあり、インフラの海を形づくる無数の力線でもあるわけです。

3. のコンピュータおよびインターネットをめぐる批評ですが、海市展がただの都市計画の再現=表象ではなく、ICCというNTTの広報機関の展示であり、海市のコンセプト自体にコミュニケーションの問題が含まれている以上、電子通信メディアに対する批評をおこなう必要があると考えました。抽象的に理解されたインターネットとは、無限で瞬時の相互通信の可能性を与えるものですが、しかし、それはコンピュータという物体なしには可能ではありません。逆に、インターネットとはコンピュータというきわめて複雑な構造物が自己を維持するために必要としたネットワークであり、哲学的にいえば、新プラトン主義的な〈流出(エマナチオ)〉、つまり、コンピュータという存在から流れでて世界を覆うに至ったものにほかならない、という議論もあります。いずれにしても、コンピュータというメディアの物質性は無視できない。というより、われわれは人間相互のコミュニケーションよりも、コンピュータとのコミュニケーションにこそ溺れて、官能的に充足しているのではないでしょうか。

この展覧会のあとにこの会場で展示をおこなうという、ステラークというアーティストのパフォーマンスでは、自分の肉体にコンピュータを直に接合するという試みがなされます。いわばコンピュータとはわれわれの肉体の一部であり、決して単なる透明な手段にすぎないものではない。すでに黒電話が臍の緒でつながれた胎児を連想させる形態であり、こうした形態は無意識の欲望の作用によってもたらされたものとしか思えない。ちなみに、私の妄想的イメージとして、トイレで鳴りつづける黒電話というものがあって、これは海辺に打ち上げられた死んだ胎児のイメージにつながるものです。からみあった黒電話は、いわばそんな子供たちにほかなりません。

 インターネットの空間を表象するという、例えばヴァーチャル・アーキテクチュアをめぐる議論の抽象性に逆らって、即物的にコンピュータというこの肉体に触れること、この肉体を解剖し、そのパーツを標本化してみたいという欲望を文字どおりに実現してみたのが、この展示です。できればここにあるコンピュータを全部分解したかったのですが、さすがにコンフリクトが大きそうだったのでやめました。そして、これは同時に、この展覧会のインターネット・セクションのコンセプトに対する疑問の提示でもある。
インタラクションとかインターコミュニケーションといった抽象化された言葉よりも、コンピュータをはじめとする電子メディアとわれわれの身体・肉体との関係性こそが問題であり、それはわれわれの肉体にかかわる限りで、都市の生命倫理の問題と無縁ではありえないと思います。

ある来場者の方の感想に芝居のセットのようだ、というものがありました。意図したわけではありませんが、確かにこれは一つの舞台であるのかもしれません。ここで演じられているのは、近代医学による都市の身体の治療のシミュレーションであると同時に、その屍体の埋葬の儀礼でもあります。いずれにしても、都市の生命をめぐる技術と倫理がそこで問題化されている。来場者の方には、この展示空間・舞台空間を、その身体によって経験し、感じていただきたいと思います。

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