島という幻想:胎児としての海市

田中 純


 海市というユートピアは島として想定されている。例えばそれは自動車交通の流れをさえぎり、徒歩や水上交通などによる移動のみが許される、隔離された環境を提供するものといわれる。なるほど、アジアのコンフリクトに満ちた政治的、社会的コンテクストを一時的に宙づりにして、〈アジア共同体〉の中心を夢想するからには、こうしたフィクションもまた、必要不可欠ではあるだろう。オルタナティヴなテクノロジー、オルタナティヴな都市計画の構想は、透過・不透過の選択性をもった界面によって守られた〈島〉という空間を前提とせざるをえない。

 しかし、浮遊する自律系としての〈島〉というイメージが一種のトリックであって、きわめてイデオロギー的な欺瞞をはらんだものであることも確かなのだ。エネルギーや情報を島の独立したインフラストラクチャーから吸い上げる、といったコンセプトは、ライフラインやパイプラインによって供給されるエネルギーや情報のサーキュレーションに対してオルタナティヴを提示しているように見えて、実はその〈ライン〉を不可視化して〈島〉という自律系を仮想的に成立させているにすぎない。フラーのジオデシック・ドームは閉じた系になることはありえず、自らを閉ざそうとすればするほど、外部に向けて不要な熱や廃物といった系の残余を秘かに排泄しつづけなければならない。

 海市展の会場構成もまた、それが島であるかのような印象を強めているが、そもそもプロトタイプ自体、二本の橋で横琴島につながれていたはずだ。そして、横琴島もまた別の島々を経て大陸へと連結されている。 珠海市を取り囲むのはむしろより巨大なレベルでの連結とサーキュレーションへの欲望であることは、レム・コールハースらの調査が語っているところでもある。 なぜ、このような紛れもない事実が抑圧され、〈島〉の表象ばかりが流通するのか。

 そこで見失われているのは、いわばアジアを縦横に走って連結するネットワークの、 その錯乱した欲望の辺境に漂う、か弱い胎児状の島、海市をつなぎとめる細い臍の緒の存在にほかならない。この胎児とは羊水のなかに浮かび漂っている生死の境目の身体であり、それが表すのは、いまだ生まれておらず(おそらく生まれない)海市というユートピア、あるいは近代のユートピアという生まれなかった夢の屍体でもあるだろう。

 そんな胎児からの連想として執拗にとりついて離れない、妄想にも似たイメージとして、トイレでただひたすら鳴りつづける黒電話があった。受話器と本体をつなぐコード、あるいは電話機を連結するコードがあたかも臍の緒であるかのように思われだすと、黒電話はいまだ誕生する前の苦しみ(それとも誕生することの恐怖だろうか)に泣いている胎児にも見えた。水辺に置かれ、水に流されていく、あるいは海辺に打ち上げられた、生まれることのかなわなかった子どもたちのイメージ。黒電話の形態に託されているのは、実はそこに投影されたそんな無意識の語りかけではないのだろうか。

 コミュニケーション・メディアは決して透明な媒体ではない。それはその物質性において無意識に訴えかける官能性を秘めている。インタラクション、インターコミュニケーションといった心地よい言葉とは裏腹に、メディアはわれわれの肉体との皮膚感覚的接触によって成長しながら、コミュニケーションの目的そのものになっていく。黒電話への愚かな偏愛が暗示するのは、コンピュータを含めた電子コミュニケーション・メディアすべてが発散する、そんな誘惑であるように思われる。携帯電話やPHSと、コードレスな通信が支配的になっても、われわれの無意識の幻想においては、メディアはすべて何らかの臍の緒で連結されたものとして表象されているのではないだろうか。そして、その不可視となった臍の緒によって、まさに肉体的に連結され、拘束されることをわれわれは欲望しているのではないだろうか。これを〈胎内回帰〉と呼んでもよいが、通俗心理学の述べるところとは異なり、胎内回帰は保護された安全なユートピアへと戻ることなどではまったくなく、むしろその正反対で、母と密着して決して離れられない、悪夢のような拘束状態に陥ることにほかならない。生まれでることはあまりに困難なのだ。臍の緒の存在を抑圧し、〈島〉という表象を喧伝する傾向は、生まれでることへの激しい願望を示しているのかもしれない。 ─ しかし、どこへ?

 誕生と同時にわれわれが忘れ去ったのは、われわれがいまだ誕生していないという現実ではなかっただろうか。この忘却によってはじめてわれわれは生まれでることができる。あるいはこの忘却がすなわち誕生なのだといってもいい。胎児とは未生の infans ─ ことばなきもの。われわれは彼らの言葉を知らず、彼もわれわれの言葉を解さない。ジャック・ラカンが「エクリ」に引いた次のようなレオナルド・ダ・ヴィンチの断章は、そんな胎児としての海市を予言する、謎めいた一編の詩に思われてならない。

「おお海辺の都よ! 吾は汝のうちに、男女をおしなべて、汝の市民たちが、手足を雁字がらめに緊くしめつけられ、汝の言語を解せざらん輩らによりて縛り上げられたるを見る。しかるに汝らは、おのが悲しみはたまた失われし自由を、かたみに嘆き合い涙ながらの泣き言と吐息とによって、漏らしうるのみぞ。けだし汝らを縛れるものは汝らの言語を解せず、汝らまたかれの言語を解せざるがゆえに。 ─ 襁褓に包まれたる子供について。」(杉浦明平訳) 襁褓:生れたばかりの子に着せる産衣

 海市計画が、コミュニケーション・メディア、電子メディアが現在形成する環境の、都市という形をとった表象であろうとするからには、それはメディアを通じて伝達される言葉ではなく、メディアそのものの言葉、われわれには理解しがたく、しかし、だからこそわれわれを呪縛するその言葉に対して、応答することにならざるをえない。「誕生期のメディアの楽天性」(蓮實重彦)からはるかに遠いところで、メディアの肉体への介入、電子メディアの〈基底材〉(アルトー=デリダ)を猛り狂わせる試み、表現のメディウムに穴をうがつ試みがそこでなされなければならない。

 同時に平行してわれわれが海市展でおこなおうとするのは、アジアのこの地域を支配する圧倒的な連結への欲望を肯定し、その過激化によって何が帰結するかを見届けること、つまり、完璧なサーキュレーションという近代のユートピア、その計画=企画(プロジェクト)を〈消尽〉し、使い尽くして、計画=企画の観念の限界まで行ってみようとすることである。そして、そのためにまず、海市計画において根強く作用しているプロトタイプという基底面(図に対する地)の拘束力とは何なのかが問われることになるだろう。さらには、基底面を脱構築し、それを消失していくイメージに変容させてしまうこと。そのようにプロトタイプを変容させてはじめて、われわれは海市〈計画〉へと向かうことができるだろう。その計画とはそこで、都市〈計画〉という観念そのものの埋葬、生まれなかったユートピアの哀悼にほかならなかったとしても。

back to index