1/1, 1/500

門林 岳史


 第一週の岡崎案では、大量のグラスを積み上げ、それを1/500の模型を支える 構造物であると同時に1/1の実物大のグラスとしても見立てることで、1/500の 模型に1/1の要素を盛り込んでいた。これに対して4/26のミーティングでは、あ れは結局1/1のインスタレーションに過ぎないと批判された。しかし、続く第二 周と第三週で行われたことは、岡崎案の1/1的要素をなし崩し的に引き継いだも のであったと言える。例えば、台風のメタファーとしての実物大の扇風機の使 用。しかし、ここで問題にしたいのはむしろ、この一連の過程そのものが1/1の 縮尺で進行してきたのではないか、という点だ。つまり、時間軸に沿っての縮 尺を問題にしているのである。パンフレットには、ヴィジターズは「海市の『 歴史』を3ヶ月に凝縮したシミュレーションです」とある。この場合の「歴史 」がどのようなスパンのものなのかははっきりしないが、それを三ヶ月でシミ ュレートするときには、ある縮尺が仮定されていることは確かだ。しかし、こ れまでの経過は、台風の到来、住民の避難といった出来事が、リアルタイムの 日付付きで仮構され、WWW上ではそれを伝える「新聞」が発行されるなど、1/1 の縮尺で「歴史」が進行している。このままでは、会期が終了した時にも復旧 のめどは立っていないだろう。

 都市の生成、変化していくプロセスを三ヶ月でシミュレートしようとすると きには、当然何らかの抽象化(=縮尺)が不可欠である。しかし、それは同時 に、具体的な模型として提示されなければならないものでもある。この抽象、 具体の対比が、ちょうど1/500、1/1の対比に対応している。1/500の模型は、そ れ自体としては、あくまで1/1の実物大である。1/500の縮尺は、想像上の実物 との関係を示しているに過ぎない。つまり、1/500の縮尺は、その模型が、想像 上の実物のある抽象化の産物であることを示しているのである。言い換えれば 、我々がある模型を見るときに、それを1/1としてみるときには、具体的な模型 そのものを見ていて、1/500としてみるときには、その模型をある抽象化の産物 としてみている、ということになる。

 では、我々はどうすればよいのか? 冒頭でも述べたように、これまでの経 過は、岡崎案の持っていた(と考えられる)1/500の模型に対する批判が失われ 、その1/1的性格だけがなし崩し的に受け継がれてきたものであったといえる。 当面の課題は、空間的にも時間的にも、1/500の縮尺、すなわち何らかの抽象化 の産物としての模型へと立ち戻ること、そして、同時にそれが1/1の契機を内在 していることに対する批判的な視点を持ち続けることではないだろうか?

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