まえがき


─ 近代建築史へのまなざし ─



 本書は残像のなかにモダニズム建築を見いだそうとする試みである。 ─ このように語るとき、その残像とはあたかも、モダニズム建築の栄光がわれわれの網膜に残した影であるかのように響くかもしれない。しかしそうではない。栄光と誹謗に包まれ、さまざまな物語の主題をなしたモダニズム建築が実在したことはなかった。それはいまだ生まれていない。ここで語られようとしているのは、生まれる以前に痕跡となってしまったモダニズム建築という残像、正体もわからない、あまりに強烈な光景のショックによって、歴史に陰画のように焼き付けられたイメージである。モダニズムは残像として、つまり事後的にしか存在しない。それはモダニズムがつねにすでに遅れにおいてしかありえないということだ。どのようなポスト・モダニズムよりもモダニズムは自分自身の生に遅れている。蘇生の希望につなぎとめられた仮死などと生やさしいものでなく、モダニズム建築はあらかじめすでに死んでおり、そのような未生の屍体として二〇世紀に直立したのである。
 この遅れを遡行し、起源の圧倒的な光の場 ─ しかし、その光はひとを盲目にする ─ へといたるために、本書ではいわゆる近代建築史においてはマージナルで例外的な建築家や建築作品 ─ 統一的で一貫した歴史記述の試みに抵抗し、それを内破させる〈症候〉 ─ を対象とし、そこへ向けてはすかいにまなざしを向けることで、歴史の風景をアナモルフォーズ的に変形させて見直すことがもくろまれている。ここでは建築物そのもの以上に、建築ドローイングや建築写真といった建築の〈余白〉こそが問題であり、二〇世紀の建築は逆にこの余白によって囲いこまれた領域として浮かび上がる。その探究の軌跡は〈建築家〉たちの固有名を中心とした複数のモノグラフィーによって描かれるが、それは近代建築史が建築家というモダンな〈主体〉形成の歴史と表裏一体であるためだ。それぞれのモノグラフィーにおいて、分析は各建築家の総合的な像の再構成ではなく、症候的に回帰してくる各作家固有の、時として奇妙で極端な諸要素のなかに、これらの〈主体〉の核を追求することへと向かう。精神分析理論が援用されるのはこうした文脈においてである。
 残像は必然的に衰微する。その始まりからすでにモダニズムは衰微し続けている。しかしこの衰退過程の時間性は永遠回帰的な反復であって、起源は事後的に構成されつつ、衰退そのものが生成を繰り返して、終わりは終わり続けるのである。それがモダニズムの〈終わり〉であり、ミース的な意味でそれこそがわれわれの〈時代〉なのだ。本書の主題とはこの〈われわれ〉であり、その〈時代〉である。それを扱う舞台が、哲学や文学、あるいは音楽、美術ではなく、あえて〈建築〉であるのは、この領域におけるほど、モダニズムがイデオロギー的に機能した例はなかったからだ。ポスト・モダニズムが建築において開始されたことはその帰結である。イデオロギーとしてのモダニズムとは、建築の実在性(現実性)を根底的な次元において支えていた空想的構築物だった。この〈時代〉においてなお、建築を実在させているのはこのイデオロギー的空想である。ここに読まれようとしている書物が意図するのは、モダニズム建築そのもののなかにこの実在=現実性を破綻させる亀裂を見つけだすことであり、それによるイデオロギー批判である。本書は〈建築は存在しない〉という命題を書きつけるために構成されている。
 序章はこの衰微の時代、すなわち〈衰退期〉をめぐって、美術史という知のディスクールがどのように展開されてきたか、その系譜をリーグルからベンヤミンまでたどり、方法論についての考古学的な反省をおこなう。〈残像〉という隠喩によってここで示した曖昧な対象が、どれほど深く美術史を呪縛してきたかがそこで明らかにされるだろう。
 続く建築家たちのモノグラフィーは、その症候のタイプによって三つに分類される。第一部は空間の分節に関わる症候である〈壁〉と〈扉〉をめぐり、ウィーンの二人の建築家、アドルフ・ロースとルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインが取り上げられる。彼らの建築は同時にこの時代における〈住むこと〉をめぐる困難に関係しており、この主題はハイデガーの考察と絡みながら、第二部の冒頭に置かれたブルーノ・タウト論に引き継がれる。
 タウトおよびエーリッヒ・メンデルゾーンを扱うこの第二部は、テクノロジーによる〈大地〉の変容を論じている。〈脱場所化〉(カール・シュミット)された大地、もはや確固とした基底ではないこの平面上における、建築の動員=可動化がその特性であり、それは二〇世紀的な戦争論にも関わる。
 第三部の主題は建築家の〈欲望〉である。そこでは本書の中心的なテーマでもあるモダンな主体の構造が、クルト・シュヴィッタース、ミース・ファン・デル・ローエ、そしてダニエル・リベスキンドの三人について分析される。ミースというモダニズム建築の奇妙で空虚な中心に関しては、建築家ミース・ファン・デル・ローエ誕生の原光景への遡行が試みられる。モダニズム以後の建築家と見なされることの多い同時代人リベスキンドをここに加えるのは、通念とは異なり、彼はモダンな時代をきわめて批評的に、しかし反復的に生きている作家の一人だからである。リベスキンドは衰退期というこの〈終わり〉の時代の建築家であると同時に、建築の〈終わり〉に立ち止まり続けながら、その歴史を振り返っている歴史家でもある。それゆえにリベスキンド論は、序章におけるベンヤミンの議論を受けて、再び〈歴史の概念〉を問うものとなろう。そして、本書が構想されたそもそものきっかけは、リベスキンドによる建築論のこんな一節だったのである。「一心に長い間〈形態という太陽光〉を見つめたために、ひとは建築を(それは一つの残像だろうか)その非形態の白と形態の黒のうちに見るようになったのだ。」

 建築を論じつつ、最終的にはその〈余白〉の途方もない増殖と拡大の果てに、建築を消去してしまうこと。そのとき、モダニズムのみならず、建築そのものがもはや残像であるだろう。

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