Nossendorf, Tokio oder sonstwo


ジーバーベルク氏のサイトを見て。

内容は断片的にしか伝わっていないのだが、いや、そうだからこそ、例えば映像化した「予告編」や附録とした地図へのジーバーベルク氏の関心が、意味深く思われた。
そして、あのようなかたちで言説とイメージを「圧縮」する方法それ自体を、彼の映画から学んでいたことに改めて気づかされる。

概要の英語訳、ドイツ語訳を自分で作る必要性は感じているのだが、大冊全体が緊密に関係し合い、さらに図版や「地図」といった要素が重要な一部をなすため、どのようなかたちでまとめるべきかに躊躇があった。
それが「予告編」のようなものを生んだ要因のひとつだろう。
この短い映像に英語の字幕を付けることは試み始めているし、目次や「地図」程度は早く訳しておきたいと思う。

理解不能性においてこそ、伝達されるものがある。
そして、この点で自分の直感的な発想に、狂いはなかったようにも思うのだ。

一方、逆に、日本語でこの書物がどれだけ読まれるか(部数のことだけではない)に関して、いささか暗澹たる予感がないわけではない。
ある種の平板さや凡庸さこそが何か評価されるべきものに見えてしまうというのは、冒険を忘れた時代の趨勢なのだろう。
無難な統一性や網羅性しか、判断基準の拠り所がなくなってしまうわけである。
ここ二週間ほどのあいだに力強い励ましをいくつか得たことは、だから、救いでもあった。
それは秘かな、隠れた共闘関係──秘密の結社──の暗示だった。

これもまた、野戦攻城、である。

Posted: 日 - 2 月 1, 2009 at 10:15 午前          


©