一ヶ月以上もブログを書いていなかったことに気付く。
理由は簡単で、この時期特有の諸事万端のほか、今年は例年になく雑事ばかりだからだけれど、まず第一には、寸暇さえあれば書き下ろしの原稿に手を加えていたからだった。
何よりもそれを書くことのほうに充実感があるので、ただでさえ雑然たる時期に細切れの雑感を綴る気にはならなかったのだ。
細切れの雑感とは、某政党の幹事長を検察が起訴しないのはおかしいだろうとか、同じ某政党がこの幹事長をめぐる疑惑の調査に対して示したヒステリックな反応への不快感とか、一国の首相なのに腹話術の人形みたいで言葉の軽い男に対する嫌悪感とか、政治がこれだけの異常事態なのに根本的に緊張感が欠けている現状の無気味さとか、暴行を起こした横綱とその師匠がやりたい放題の挙げ句に招いた末路の後味の悪さとか、Kindleはちっともほしいと思わなかったけれど、iPadでなら電子ブックも悪くはなさそうだとか、もっと身近なことでは、大学教員の官僚化ないしモーレツ・サラリーマン化でなければアクティヴィスト化とか儀礼ばかりの国際化とか無内容な会議の長さとか、あれとか、これとか・・・・・・
──しかし、そんな月並みなことを「つぶやいて」何になるのか。
ついでに書いておくと、「つぶやく」一方できちんと仕事をしている人が大半だろうと思うが、「140字書いている暇があったら、本分に即して、ちゃんと論文を書いたらどうなんだ(指導教員に挨拶くらいしろよ)」とつぶやき返したいつぶやきもある。
「つぶやき」もそうなのだけれど、電子メールから何から、インターネットのテクノロジーはひたすら人生を細切れで雑然としたものにするためにだけあるような気がしている。もとより、リサーチの手段としては多大な恩恵を被ってはいるが、それは明確な探索目標があるからで、それなしの即時反射を繰り返していると、その反射そのものが自己目的化しかねない恐ろしさを感じる。
「雑誌」という形態を去年は反省してみた。その雑然さと構築性とのバランスを、メディアが取り戻すことはできるのだろうか。
以上が、一月分のつぶやきのまとめ。
もっと本質的なことは原稿に書いている。3月からは印刷物の形で、少しずつ読んでいただく機会もあるだろう。
春浅いイタリアでの調査を終えたら、終着点も見えるだろうか。
何人かの方に拙著『政治の美学』を挙げていただきました。ありがとうございました。
わたしの回答は次の通りです。
1の棚 食と殺生をめぐる人間社会の欺瞞を衝く服部文祥『狩猟サバイバル』(みすず書房、二〇〇九年)の、「猟師が自分の殺生を精算する機会があるとしたら、獲物を自分で解体するという作業においてだろう」という指摘に眼を開かされた。カルロ・ギンズブルグ『闇の歴史』(せりか書房、一九九二年)で論じられる、骨を集め、死んだ動物の皮で包むことを基礎とした、ユーラシアの再生儀礼を連想する。さらに、三中信宏『分類思考の世界』(講談社現代新書、二〇〇九年)とクロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(みすず書房、一九七六年)を合わせ読み、分類思考の要である「種」という「業」を積極的に愛する思考のかたちについて考える。
2の棚 前田英樹『独学の精神』(ちくま新書、二〇〇九年)も、「身ひとつで生きる自分が学ぶ」独学を論じて、最終的には「皆で大いに旨い米を食べよう」という食の問題にいたり着く。大学は所詮組織に過ぎない。事業仕分けをはじめとして、そのことを今年は痛感した。孤独な学問の夢を甦らせた書物として、互盛央『フェルディナン・ド・ソシュール』(作品社、二〇〇九年)という大作が出た。「一」なる国語ではなく、〈一〉なる言語のもとでの「民族不在のヨーロッパ」という「一般言語学」のヴィジョンに、日本語で書くことの可能性を読む。秋にはソシュールと同じスイス出身の作家ジルベール・クラヴェルについて、バーゼルでアーカイヴの資料を調査した。ヴァールブルク、クラヴェル、そしてクラヴェルが晩年に影響を受けたバッハオーフェンにいたるまで、すべて在野の学者だった──「野戦攻城」という世代感覚を語った橋川文三もまた、自分を独学者と規定している。
3の棚 『白髪小僧』をきっかけにひとしきり夢野久作に嵌る。この文体と想像力はどこから来るのか。その根のひとつが謡曲にあることは確かだろう。渡邊守章『快楽と欲望』(新書館、二〇〇九年)と『越境する伝統』(ダイヤモンド社、二〇〇九年)という二冊の評論集から伝わってくるのも、身体を通過した日本語のリズムである。
『現代思想』のレヴィ=ストロース特集に寄稿しました。
書誌情報は
田中純「種の魅惑、縮減模型の魂──『野生の思考』再読」、『現代思想』第38巻1号(2010年1月号)、青土社、2010年、154〜165頁。
なお、文中で言及しているレヴィ=ストロースが作った神話の形態変化を表わす三次元模型については、該当すると思われる物体の写真が同じ号の59頁に掲載されています(今福龍太さんの論文の図2)。
この号に収められた文化人類学者の皆さんの論考からはいろいろ刺激を受け、レヴィ=ストロースの仕事を文化人類学はもとより、それとは異なるかたちでも継承する必要性を感じました。
事業仕分けの話とか、当日、いろいろ付け足しを考えていたのですが、時間切れでした。
戦うべきは反知性主義。だから、啓蒙も必要なので、短期的戦略としては「メディアの戦争」に参戦することも確かにありうる選択肢かもしれない。
けれど、そこで引き合いに出されるのが新哲学派だとすると、先日の蓮實+浅田対談ではないが、「死ぬために書く」という、それこそ殺し文句のほうがはるかに切実に思える。
「聞くこと」という臨床の知と「聞く耳持たぬ者にも聞かせる」という啓蒙の両者が必要なのだろう。
言葉の通じぬ者に向けて語ること、言葉もたぬ者の言葉を。
言葉なき者の語りを聞くこと。敗者に耳傾けること。
だから、同時代のためにのみ書くのではない。
死者とともに、あるいは、生まれざる者とともに書くこと。
もっとも「敵」はいたるところにいる。
『中央公論』の蓮實+浅田対談をつい読んでしまう。
既視感あふれるものだが、文字通り、対談自体が現代を19世紀の反復と見なしているのだから、20年前と大差ないものになることは当然なのだ。
現在のメディア状況に対する姿勢はお二人とまったく同意見で、「即時的なレスポンスのやりとりがコミュニケーションだという誤った神話に惑わされてはいけない」という浅田さんに対して、「それを嘲笑すべく、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけじゃないですか」と蓮實さんが応じているのはもっともというほかない。もういっぺん強調しておくと、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけだ。
Twitterをただの雑談と見なせば別にどうということはない。雑談は楽しいし意味もある。しかし、もの書きがただでさえぐだぐだな思考をTwitterで垂れ流しても、それが自然にまとまるものでもないだろう。実際のところ、ぐだぐだの泥沼に沈んでゆくのが眼に見える・・・・・・。
「Twitterであれ何であれ、所詮はメディア戦略じみたもの」と割り切った自意識の持ち主にしたところで、浅田さんの発言にあるように、「ディベートでこう言えば話題になるはずだという計算でずっとやってきた」フランスの新哲学派と同じく、そんなもので「勝ち組」になることに何の思想的意味があるのか。
とはいえ、この対談がどこか引退した賢者たちの高みからの発言に見えてしまうことも否定はできない。大学の制度改革などをめぐる蓮實さんの発言には、かつての東大総長・国大協会長としての過去に由来する、ある種の弁解じみたお気持ちがうかがえないわけではないように思う。「高齢者が金融資産を独占している状況を変えるには退職金制度をやめるしかない」という提案(それ自体はリアリストらしい現実的な政策だけれど)には、「あなたがそれを言いますか」と、苦笑を通り越し、みんなで爆笑してしまったが。
総じてお二人は、ごく常識的な意味で、「愚鈍」となるにはあまりに「聡明」なのだろう。「愚鈍さ」の称揚はある種の「嫉妬」から来るものに思える。ただ、「投瓶通信として書く」「レスポンスを求めないために書く」(浅田さん)、「発信しないために書く」(蓮實さん)、ついには「死ぬために書く」(ブランショ)といった言葉は、しごくまっとうな倫理としてかすかな支えにはなった。
読売新聞の読書委員(書評執筆)としてほぼ最後の仕事に取り上げるのは、服部文祥『狩猟サバイバル』(みすず書房)。内容は次の日曜に掲載される書評に譲るとして、たまにはここにも雑感を。
2年間にわたって書いてきた書評の最後に何を取り上げようかと思っていたところ、ちょうどこの本にめぐりあった。締めくくりにはふさわしい一冊。
この本の出発点がそもそも「肉食系」なので、ベジタリアン的な「草食系」の発想は端からない。そこがいっそすがすがしい。
生に執着している自覚はないが、ボウイや70年代ロックのテーマだった「サバイバル」は、身近な感覚ではあった。
何としても(ある象徴的な意味で)生き延びて、明日は戦うんだ、といった。
何のために?
「野戦攻城」の「独学者」(橋川文三)──生き延びてしまった者の倫理に惹かれるのも同じことなのだろう。
何が敵かは、敵だったのかは、倒れるまではわからないにしても。