だから、ある種の世代経験、時代経験を背景としつつ、「潜在性・潜伏性(Latenz)」をキーワードに、哲学、文学研究、歴史、美術史まで、幅広い論考を集めたもの。19篇の論考が「解釈学」「詩学」「系譜学」「存在論」の4つに分類されている。
グンブレヒト氏は2007年に慶應大学で「大学の人文学に未来はあるか?」という講演をしており、記録が公開されている(PDF)。現代ドイツという文脈を離れた人文学の趨勢については、二つの講演は重なる部分が多い。
書誌情報は
田中純「鳥人間の影──ジルベール・クラヴェル『自殺協会』」、『UP』470号(2011年12月号)、東京大学出版会、2011年、59〜65頁。
『自殺協会』では、古代エジプトの霊魂観を背景とするこうしたアルカイックなシンボリズム、中世ヨーロッパの「死の舞踏」の虚無的なグロテスク、そして、この協会が位置する建物のエレベーターや開頭手術に使われる歯車装置といった機械のモダニズムなどが奇妙なかたちで融合している。現代的な合理性が古代的な想像力によって幻想的に、しかし極度に乾いた筆致で歪曲された『自殺協会』の世界には、カフカが『審判』で描き出した裁判所の官僚機構や『流刑地にて』の処刑機械を思い起こさせるものがある。自殺協会のシステムそのものが、ひとつの「独身者の機械」(ミシェル・カルージュ)をなしている、と言ってもよい。そして、クラヴェルはこの機械を、死を変容させることで生き延びるためにこそ必要とした。(...中略...)
このように『自殺協会』においては、古代エジプトの死生観をはじめとする神秘主義的な形而上学と世界大戦を風刺したアイロニカルな舞台設定、シュルレアリスムを先取りする幻想性とカフカを思わせる謎めいた寓話性、イタリア語の背後にドイツ語を潜ませた多重言語による、非常に古風でありながら前衛的な文体、そして、デペロによる挿絵や口絵の機械人形たちが跋扈する悪夢のような異世界のヴィジョンといった種々様々な要素が相乗的な効果を上げている。この「独身者の機械」は、イタリア語への翻訳を通じて多声化するとともに、新たな「技師」デペロの参加によって、テクストに従属しない視覚的イメージという強力なダイナモを備えることになったのである。
まさにソフィストの時代以来、哲学の大半は、大学に類する組織において、公の専門職の資格をもった人々によって「牛耳られて」おり、そしてこの哲学という仕事にたずさわる者が給料を期待し、また実際受け取ってしまっているために、われわれはこの職業に内在する興味深い問題[真理や知に対する謝礼をめぐる問題]を見過ごしてしまっている。
こうした組織に対する反抗者がショーペンハウアー、ニーチェであり、ウィトゲンシュタインもこの状況を胡散臭いものと見なし、スピノザも距離を置いた。「真の師は、給与は雀の涙ながら、その精神性において托鉢修道僧に似るものとなる。(...中略...)さらに現実に即して言えば、ものを考え問いを発することを仕事とする教師は、天職とは直接的に関係のないしかたで、日々の生計を立てることになる。靴職人だったベーメ、レンズを磨いたスピノザ、困窮にあえいだパース、事務員だったカフカやウォレス・スティーヴンズ、作家だったサルトル・・・。
ソクラテスの教育はいわゆる教育の拒否であったという指摘。なぜなら「無知の知」へと対話者を導くのだから。それはウィトゲンシュタインにも通じる。彼らの「意図を理解した者は誰でも独習者になるのだ」。人の心のバランスを乱してやまず、理解したと思った瞬間に、その理解を砕くような「神話」や「喩え話」の比喩構造。
注目すべき一節──「地獄という名の幼稚園──幼児性とは地獄落ちの常態に等しい」(70頁)。とするならば、インファンスは地獄に堕ちている。パウル・クレーの《幼稚園=地獄の天使》。
ダンテとウェルギリウス、ファウスト博士をめぐる問題圏などにいたるまでの論述には緊張感を感じるのだが、それ以降(第三章後半のフッサールとハイデガーの師弟関係以降)はやや足早になってしまう。古今東西にわたる途轍もない教養がうかがわれることは確かだし、今日的状況への目配りもあって触発はされるのだが。講演を元にしていることに由来し、また、優れた翻訳の賜物でもある、淀みなく流麗な語り口そのものが、結果的には自分にとっての壁になる。スタイナー自身のこの「教え」はどのような「師」から継承され、どんな「弟子」に伝えられようとしているのかが見えない。それともこれは所詮、師弟関係とは関わりのない、顕教的な表向きの言説なのだろうか。
密儀(密教)と顕儀(顕教)の区別、および、前者は師から弟子へと口伝でしか伝えられないといった事態について、本書では何度か言及される。スタイナーの論述が旋回する核心となる、エロスの問題もまたそこに関わっている。それゆえ、この枠組み内部での口伝の重要性は疑いようもないが、しかし、師の教えがテクストというかたちで漂流し、まったく予想もしなかったところに弟子(私淑する者)を見出す可能性はつねに残されるだろう。「独学者」の存在がここに浮上してくる。
著者も触れているように、劃期的な発見はむしろ、師弟関係の外にいるディレッタントやアマチュアによってなされることが多い。創造的なひらめきという「狂気(マニア)」は教えられるものではない。師にできるのは、その直前まで弟子を導くこと──「無知の知」に直面させること──にとどまるだろう。
本書を読んで最後に想起したのは、『日本浪曼派批判序説』増補版「あとがき」(未來社、1965)で、ジョルジュ・ソレルの言葉「私は、私自身の教育のために役立ったノートを、若干の人々に提示する一人の autodidacte である」を引いて自分自身をも「autodidacte」、すなわち独学者と規定した橋川文三だった。鶴見俊輔はこう証言している。
あるときなんか、丸山さんの自宅を訪ねたら私の先客に橋川文三がいたね。そのとき丸山さんは、こういうふうに言うんだ。「これは橋川君。評論家だ」って。彼は「自分の弟子だ」とかは、けっして言わないんだ。──鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの──鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004)ここに師弟関係はなかったと考えるべきなのだろうか。それとも双方の側からする別離があったと考えるべきなのだろうか。
ソフィストの末裔であることに甘んじるのでなければ、どんな場所からもアクセス可能な、知識の公然たる技術的世俗化が果てしなく進行しつつある状況下だからこそ、どのような形態の密儀が、隠者としての托鉢修道僧の住み処が、独学者の共同体が、今この時点で可能だろうか。
これもベルリン文学・文化研究センターのシンポジウム。3日間の日程だが、今日は行かないので、以下が備忘のためのメモ。非常に長文です。
書誌情報は
田中純「都市を占う」、高梨豊『IN'』、新宿書房、2011年、138〜141頁。
Jun Tanaka, Fortune-telling for Urban Cities. In: Yutaka Takanashi, IN'. Tokyo: Shinjuku Shobo, 2011, pp.142-144.
「ベルリン文学・文化研究センター(Zentrum für Literatur- und Kulturforschung Berlin)」主催のワークショップ。2011年11月25〜26日。
中心になっているMartin Treml氏は所長のSigrid Weigel女史とともにズーアカンプ社から一巻本のヴァールブルク著作アンソロジーを編纂・刊行している。
平凡社の方が公開なさっている書評の画像です。
最後の一文、正確に意図を汲み取ってくださっている。拙著で問題にしたのは世紀転換期ヴィーンの「スタイル」──生と性、倫理と芸術を横断する──だったのだから、とくにロース/クラウスのスタイル=文体をどこかで意識していた。新書という雑誌に近い形式でなければ、そうはしなかったかもしれない。
その文体の特徴とは、ロースの創刊した雑誌名で言えば「他者(別のもの)」、つまり、異質性。ロースは「オーストリアへの西洋文化の導入のため」と言った。異質性をそれと知るためにはコンテクストの知識が必要だ。そもそも思想史は多領域の関係性をメタレベルで考察するものなのだから、そのために前提とされるコンテクストの理解も多重化する。しかし、いくつかの峰を越えて山を登った果てに見える風景──その地形──にこそ、思想史の醍醐味もまたあるというものだろう。
田中純「秘密の小部屋──「トポフィリ──夢想の空間」展をめぐって」、『教養学部報』第542号、東京大学教養学部、2011年11月2日、2頁。
『教養学部報』のサイトにいずれ掲載されますが、読む手段が当面かなり限定されるため、ここに掲げておきます。
「秘密の小部屋──「トポフィリ──夢想の空間」展をめぐって」
「論理の官能性」という言葉はいささか異様に響くかもしれない。論理のエロティシズム──わたしにそれを最初に教えてくれたのは、本書の登場人物のひとりであるヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だった。十歳代の終わりに夢中になって読み耽った書物である。この『論考(トラクタートゥス)』のような本を書くことを切望し、こんな本を書きえた天才に嫉妬した。文系だったわたしが理系に転向することを考え、数学や建築に進むことを志望したきっかけも、この書物との遭遇にあったように思う。結局は人文学の道に舞い戻ったとはいえ、『論考』への畏怖に似た思いは失われていない。
『論考』に官能性を感じてしまうなど、ヴィトゲンシュタイン自身にとってははなはだ心外なことかもしれぬ。だがそれは、彼がヴィーンという「装飾の都」の徹底した批判者だったからこそ、逆に帯びることになった時代性の刻印である。その意味では、彼もまた装飾の影のもとにあった。
本書でわたしは、ヴィトゲンシュタインをはじめとする反逆者たちまで含めたヴィーン文化を駆動していたひとつの論理を、できる限り鮮明に浮かび上がらせることに、ひたすら専念したつもりである。この時空間における「装飾の運命」の追跡を通して、少なくとも時代の核と見なしうるような文化現象の精髄については、ここで凝縮して示しえたのではないかと自負している。本書で取り上げたアドルフ・ロースの建築のように、新書という一律で目立たぬ外見ながら、内部では各章が重層的に関連し合って豊かな、不思議な小函にも似た書物になっていてくれればと願う。
本書に三度も登場するロースについては、とりわけ近年再評価の気運が高い。ロースの著作の新訳も準備されていると聞く(編集出版組織体・アセテートから、アドルフ・ロース著作集1『虚空に吼える』が近刊予定とのこと)。劃期的なロース論を含むマッシモ・カッチャーリのヴィーン文化論『シュタインホーフから』(「世紀転換期のウィーン」として部分訳あり)の邦訳刊行も俟たれる。こうした書物を通じて、ロースが生きた時代の重要性がよりいっそう理解されることを期待するとともに、本書もまた、そうした認識の深化に寄与するところがあれば幸いだ。
世紀転換期ヴィーンは、建築・芸術・思想ばかりではなく、例えばシオニズムや反ユダヤ主義といった政治運動の面でも、その後のヨーロッパの歴史に大きな影響を残したエポックだった。そして、この時代を特徴づけるキーワードが「装飾」なのである。
装飾論とは言っても、話題は建築や美術のみにはとどまらない。過激な反フェミニストが登場する一方、フロイトの精神分析は一種の装飾の記号論として解読される。哲学者ヴィトゲンシュタインやプラハの作家カフカも、建築家ないし機械技師として俎上に載せられる。そして、建築家の言葉や建築作品は領域横断的に、こうした思想家・作家・芸術家たちとのネットワークの内部に位置づけられることになる。それによって、20世紀以降の建築のみならず、現代の美的なエロティシズムを決定づけた、装飾的なるものの運命を浮かび上がらせることが、本書の目論見にほかならない。
建築を成り立たせているものは、物体であり空間であると同時に論理である。そして、性欲ではなくエロティシズムを生み出すのは、論理以外の何ものでもない。だから、建築のエロティシズムはその論理にこそ宿る。「近代建築のエロティシズム」とは、従って、エロティシズムの近代的な論理と言い換えてもよい。
ここで話題にしたいのは徹底して、建築のこの論理的な官能性だけである。それは機能性や経済性や社会性に逆らって噴出してしまうような何かだ。興味があるのはいわば犯罪者だけなのである。そして、ロースもまた、いや、ロースこそは実はきわめて危険で犯罪者めいた、エロス的人間にほかならなかった。
ここは担当教員という監督者の側の担当事項を主に書く場であるが、展示空間・展示物についての総合的な評価を記しておきたい。
1. 展覧会制作の趣旨
本展覧会は大学院授業「表象文化論実験実習」の成果である。この授業の目的・趣旨についてはシラバスに次のように記載した。
書誌情報は
田中純「白い錯乱──ル・コルビュジエの「最初の絵画」をめぐって」、『UP』467号(2011年9月号)、東京大学出版会、2011年、51〜57頁。
現在感じている暗澹たる思いを記録するために、昨年10月3日にツイッターで呟いた内容を転記しておく。
* 18:54 ドイツ統一20周年:ドイツ統一記念日レセプション@ドイツ大使公邸から早々に帰宅。
* 19:02 ドイツの政治家フェアホイゲン氏の統一20周年を回顧し、日本とヨーロッパ共通の未来を謳う格調高い(いささか長すぎたが)演説のあと、乾杯の音頭は民主党の大臣・海江田万里氏。「大使館のあるこの地域が自分の選挙区なので、そういう意味で来ました」と述べる。「そういう意味」ってどういう意味?
* 19:05 さらには、「あまり長く喋ると、次の選挙でわたしに投票していただけなくなるので、このへんで乾杯でございます」とまで。「乾杯でございます」という台詞もあまり聞かないが、ドイツ統一20周年記念日に招かれているのに、お前は自分の選挙の心配しかしないのか、と。呆れた。
* 19:07 もしかして、衆院選が近いのか? 格調高い演説までは期待しないけれど、自分の選挙区だとか選挙の投票だとか、話題がいかにも場違いな気がした。そのスピーチがドイツ語に訳されているのを聞いてため息。
* 19:13 だいたい大使館のある港区に住んでいる選挙民など招待客のごく一部であることは、少し考えればわかることではないだろうか。風見鶏的な目先の利きそうな政治家というイメージがあるだけに意外な気もする。これはいよいよ解散→総選挙の流れができつつあって、浮き足立っている証拠か?
東大駒場キャンパス1号館時計台は通常は内部見学ができません(1日のみの一般公開以外は申請が必要)。そこに入ることのできる貴重な機会でもあります。
期間:2011年7月20日(水)-30日(土)11:00-17:30(入場は17:00まで)※26日(火)休
会場:東京大学駒場キャンパス1号館時計台内部空間(6階)及びそこに通じる螺旋階段(3-6階)
会場である時計台の最上階6階からの見晴らしは格別ですが、そこにいたる螺旋階段も瀟洒です。ただ、1号館3階から狭い階段を3階分上る必要があることにご留意ください。
会場に冷房はありませんが、作品に影響がないように配慮しつつ、窓を開けます。6階の高さを吹き抜ける風はさわやかです。
展覧会趣旨:
本展覧会は、フランスの哲学者ガストン・バシュラール(1884-1962年)の著作『空間の詩学』(1957年)に基づき、そこで述べられている思想の空間化を目的とした展覧会である。
バシュラールはこの著作で数々の詩作を引きながら、家、貝殻、抽出、ミニアチュールなど詩的イメージを喚起する「空間」について研究し、そこから生まれる
想像力の拡散、集中→螺旋運動を解き明かす。この生きられた空間において夢想するコギトの探求を、バシュラールは「トポフィリ(場所への愛)」と名付け
る。
バシュラール自身は、この探究を主に詩を引くことで行っているが、本展ではそれを空間化し、来場者が感覚を通して理解し体感できる空間をつくりだすことを
目的としている。これは、人文知のアウトプットの技法のひとつとして展覧会の可能性を探る試みでもある。本展は、この「トポフィリ」をめぐる思索に形を与
え、さらに来場者を各々の「内密の空間」へとみちびく運動をつくりだすことを試みる。いわば空間に詩を刻印する試みである。ひとの感覚を介して伝わる「詩
的イメージ」に牽引される想像力の運動は、展覧会という場所で感覚を通して実現されることになる。それ自体が「詩的イメージ」を喚起し得る場所である,時
計台内部と螺旋階段において、想像力のダイナミックな運動を実感して頂きたい。
特別出品: 内林武史、高田安規子・政子、谷本光隆、びん博士(五十音順)
観覧料金: 無料
予約: 予約優先となります。予約なしでもご入場いただけますが、混雑時にはお待ちいただく場合がございます。詳しくはこちら本展ブログをご覧ください。予約は下記のアドレスまでメールでお願いします。
[blog]http://d.hatena.ne.jp/bachelard2011/
[twitter]topophilie
[e-mail]topophilie@gmail.com ←予約はこのアドレスまで。
関連プログラム:
展覧会の関連プログラムとして、会期中に劇作家、岸井大輔氏(劇作家/一般社団法人PLAYWORKS代表)を招きワークショップ及びトークイベント、「芸術ジャンルに潜在する、愛と空間を探ってみる・プロローグ」を開催します。
[参加料]ワークショップ・トークイベント、ともに無料
[日程]7月20日(水)、22日(金)、26日(火)
各日2セッション
セッション1 14:30-16:10
セッション2 18:00-19:30
[予約方法]メールにて受付。詳細はワークショップブログをご覧下さい。
[ワークショップblog]http://d.hatena.ne.jp/topophilie-ws/
主催:
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻
表象文化論コース表象文化論実験演習Ⅰ(田中純教授)ゼミ生一同
協力:
東京大学駒場博物館
自分について言えば、基本になっているのは「趣味的な研究スタイル」以外の何ものでもなかったと思う。自分の納得できる結論こそがもっとも重要であるという点も同様だ。自分なりに一定の理解に達することができれば、基本的にはそれで十分なのである。
そこに危険性が存在することは承知している。だが、問題は自己自身に課したハードルの高さであって、自分を納得させられるデータの詰めが同時に客観的に妥当する水準であれば良いだけのことだろう。「趣味的」と言うと、いかにも恣意的な自己満足のようだが、趣味が仕事以上に真剣でないわけではないのだ。そして、自分の著作を審査する絶対的な審級は、同時代の学会やグローバルな学者共同体ではなく、究極的には「歴史」でしかないとわたしは考えている。われわれは同時代のためにのみ書くのではない。
著者が専門とする生物学と人文学との違いもあるだろうが、「趣味的な研究スタイル」が、習い性と化した「勉強」よりも危険なものだとはまったく考えない。むしろ、逆だ。「お勉強」が習慣化することほど、研究者として危ういものはない。ひとつの難問を抱え込みすぎたあまり、答えの出る目先の小さな問題という瑣事拘泥に陥って、そもそものテーマもろとも、自分の研究者としての感性まで腐らせてしまうという、研究の「勉強化」もたびたび起こることである。
ただ、それなりの年月のあいだ、学生の論文に付き合ってきて思うのは、「趣味的な研究スタイル」を自分で律することの難しさではある。優秀な素質をもった学生であればあるほど、どんなテーマでもそれなりの結果を残せてしまうから、ひとつのテーマを長く追究することができずに、結局、研究者としては大成しない。
だから、重要なのは生半可なかたちで答えなど出ない問いこそを抱え続けることなのだ。意識的にせよ無意識的にせよ、自分がつねに立ち戻ってしまうような問いの場を、どこかにもっていることなのである。
その意味でかつて「偉大なテクスト」との出会いの重要性を語った渡邊守章さんの言葉には深く共感する。いつまでも「問い」として眼前に立ちはだかり続けるようなテクストや作品に対して、幾度も繰り返し試みられる解釈という格闘を経験しない者に、人文学の凄みなどわかるはずもない。これは別に古典学を代表とする文献学を殊更に称揚したいわけではない(そうした分野もまた、「勉強」としての解釈という儀式を繰り返すだけの安定したジャンルになっていはしないか)。「偉大なテクスト」との遭遇とは、どんなものであれ、テクストに「選ばれてしまう」という経験である──逃れられないような宿命として。
だから、「自分の愛好する対象は研究するな」という某老師の教えは、大学(院)新入生には通用する処世訓ではあっても、所詮、それだけのものでしかない。「偉大なテクスト」との関係は、こちらが恣意的に愛したり、飽きて捨てたりできるようなものではない。はるかにつらい、傷つけられるような体験だ。人文学における「趣味的な研究スタイル」に首尾一貫性を与えるものがあるとすれば、この体験だろう。それはつまり、答えなき巨大な「問い」との、さらに言い換えれば「歴史」との遭遇である。
冒頭で引いた塚谷氏はエッセイの末尾で、中立進化説提唱者の木村資生氏が「蘭にのめりこんではいけないよ。偉くなれないよ」と語ったというエピソードを紹介している。当の木村氏は、アメリカに品種改良の農場ももっているほどの蘭マニアだったという。「その木村先生の言葉をどう解釈すべきかは、なかなかの謎である」という一文は、自然科学研究においても──研究の直接の現場ではなく、潜在的にであれ──必要とされる「マニア(狂気)」を告げているように思われる。
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moon phase









