アゴーンと劇場(Agon und Theater) - Blog (Before- & Afterimages)

アゴーンと劇場(Agon und Theater)

ベンヤミンのMentorだったFlorens Christian Rangの著作について、いくつか調査中のことあり。例えば、講談社文芸文庫版『ドイツ悲哀劇の根源』に邦訳が収められている「アゴーンと劇場」「劇場とアゴーン」に記載された古代悲劇論に関して、その着想源を知りたいのだが、ほとんど先行研究はない。あっても、ベンヤミンとの関係などが主で、参考にならない。何か見落としている?
このRangもそうだが、「消え失せる媒介者」と言うか、後世のパースペクティヴからでは見えなくなっている人物にばかり関心を覚える。

知りたい情報が膨大な無駄な情報のなかから見つけ出せるようになったことを進歩と見るべきか。それとも、むしろ本当に必要な情報へのアクセスは難しくなったのだろうか。
まあ単純に、島宇宙的に分けられた濃密な情報交換の場があれば解決することかもしれない。だから根本的にはそうした情報の共有度の問題なのだろう。
はっきりとは書くことを控えるが、制度的な枠組み内でのそのような情報の共有や伝承の可能性にはなかば絶望しているところがあり、その印象は毎年大きくなる。それが逆に、書物という形式や「独学」という方法への関心につながる。

制度の影響力は資本の関数であり、関数でしかない。やたらに世界中に金をばらまいて出店を作っているような覇権国家に対して、十分な資本投下を行なわずに勝負が勝てるわけもない。そして、そんな国家と競争することに意味を見いだしえないとすれば、では、どうするか。

美術作品も映像も商品であるかぎりは市場の論理で動くし、その市場がもはや批評の言説を必要としなくなっているという事態はわかる。機能するのはキュレイ ターやプロダクションの、市場を勘案した論理、でなければ誰でも発信できるという状況下で広まる、噂話めいた評判だけだ。

確かにそうだろう。しかし、そんなものはいつだってそうだったし、この点については幻滅するまでもない。ありていな構造がありていに露呈しただけのこと。現在時のたまさかな価値を共有することでうなずきあって、そのうなずきあいが本質的な価値だと錯覚される。
しかし、それはただの現在に過ぎない。そんなものに打ち砕かれるような言葉や思想ならば、打ち砕かれてしまえば良いのだ。

と、まあ、おのれの原則はあるにしても、制度は相変わらず縁故で動いていたり、声が大きければ大物と錯覚されるのが風潮ではある。けれど、腐ってはいけない。→自分のことではなく、若い世代に対して。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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