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「日本の大学のガラパゴス化」?

茂木健一郎氏の「日本の大学のガラパゴス化」という文章について思うところを書く。

【追記:2010年5月28日】
ここに書いたことのうち、提案の部分は、ある特殊な課題への対処策として立案したものであり、さらに、おもに人文系の大学院を想定している。その点で、あらゆる大学院専攻に適用すべきものとは、筆者自身も考えていない。また、専門職大学院が孕む問題点も承知しているが、ここで主眼としたのは、大学と企業などが積極的に協同してカリキュラムを作り上げてゆく過程で、相互に生じることが期待される変化である。つまり、大学が変わると同時に、企業側の認識も変えてゆくということだ。
ただし、現状でまず検討すべきは、アカデミアの教育に汎用性をもった能力(論理的思考、メディアの批判的リテラシー、討議力など)の育成を意識的に組み込むことだろう。人文系に限れば、論文を書くための最低限の条件は、ごく一般的なリサーチの技術やそれによって得られた情報を要約・編集して論理的かつ説得的に構成する能力のはずなのに、その部分が多くの場合には経験則にしかなっていない。従って、汎用性をもった能力としては教育されていない。

茂木氏の文章の趣旨は冒頭にこうまとめられている。

最近、さまざまな大学では、「就職」への対応を売り物にしているのだという。大学三年の秋から就職活動が始まるという日本の企業の「慣行」に合わせて、一年生の時からキャリア教育をするのだという。

このような風潮は、二重三重に間違っていて、最終的には日本の国益を損すると私は考える。

この種の「慣行」が大学教育を歪めているという指摘には首肯する。徐々に改善されつつあるとはいえ、日本社会で大学院教育の価値がいつまでも正当に評価されない理由も、こうしたキャリア教育志向と同根である。そもそも日本企業は大学教育に期待しておらず、自社内での現場の経験を重視するから、出身大学とは受 験の成果で判定される学生の基礎能力を見る指標に過ぎない。つまり、実質的には大学入学時の能力で選別が行なわれる。そのような価値をもつ「ブランド」ではない大学が対抗しようとすれば、企業内の現場経験を先取り的に代行するキャリア教育に向かわざるをえない。こうしてますます大学固有の教育は失われてゆ く。

日本の大学が、日本の企業の予備校化するということは、日本の大学のガラパゴス化をますます加速化させる。現状でも、日本の大学は、日本で生まれ、日本語を母国語とする学生しかほとんど志望しない「日本でしか通用しない商品」となっている。日本の企業への就職の予備校となることは、つまりは、日本の大学が日本の企業に就職することに興味がある人以外には、進学することを検討するに価しない存在になることを意味する。
まず、「ガラパゴス化」という用語を用いることは適切とは思われない(この点は注記する)。しかし、少なくとも大学の企業予備校化に問題があることは確かだ。ただし、ここで一律に「日本の大学」と呼ばれているものすべてを一括りに論じることは、警鐘を鳴らすレトリックとしては有効であっても、具体的な改善策に結びつくとは思われない。
これだけ大学が大衆化した現在、大部分の大学が「日本で生まれ、日本語を母国語とする学生しかほとんど志望しない「日本でしか通用しない商品」」であり続けることは避けがたいし、強制的に変えられるべきものでもなかろう。アメリカ合衆国をはじめとする国々の大学事情にしたところで、一部エリート校とそれ以外との違いを見れば、状況が本質的に異なるとは思えない。
このことと、「日本の大学が日本の企業に就職することに興味がある人以外には、進学することを検討するに価しない存在になること」とは別の事柄である。日本以外の企業が今以上に現実的な就職先の選択肢となれば、企業への就職予備校と化した大学でさえ、対応を迫られ、国際市場を見据えたキャリア教育を強いられるはずだ。いずれにしても、こうした側面において大学は社会状況の函数である。

日本の大学で学ぶ学生たちにとっても、就職予備校化は長い目で見れば致命的な欠陥となりうる。なぜならば、大学で身につけるスキルが日本の企業のニーズに特化したものとなり、学生たち自身のガラパゴス化につながることになるからである。

もともと、大学で本格的に学問をやることの意味は、そのことによって世界のどこでも通用する普遍的な知性を獲得することである。グローバル化した世界におい て、世界のさまざまな場所の相互依存関係が密になりつつある今、大学という高等教育機関の使命は、それ以外にあるはずがない。

日本企業への就職予備校化が、長期的に見て、大学で学ぶ学生にとっても望ましいものでないことには同意する。「大学で本格的に学問をやること」の理想も否定しない。だが、「世界のどこでも通用する普遍的な知性」などという抽象的な理念だけで、企業予備校化の流れを変えることができるとは思われない。

ところが、日本の大学は、自らガラパゴス化し、また学生にもガラパゴス化を押しつけることによって、普遍的な知性の醸成という使命を放棄してしまっている。このことは、長い目で見て、日本人の能力の劣化をもたらし、深刻な打撃を日本という国家に与えることだろう。
これも危機感は共有するが、日本社会の構造に大学が埋め込まれている以上、「普遍的な知性の醸成という使命」云々といった高邁な理想論で、日本の大学が一律に変われるわけもない。個々の大学は少子化の時代に、それぞれが位置している立場に応じて、生き残りに必死なのだ。それこそ、「淘汰」される過程にある。 茂木氏は「国益」という言葉を使うが、本来は「国益」を第一に考えるべき国なり政府、文部科学省、政治家たちが、高等教育全体の多様性を視野に収めつつ、 「国益」に資するような大学の差別化を図るべきだが、そのような統一的な方針なり意志が明確に示されているとは思えない。

もともと、日本の教育課程は徹底した「ガラパゴス化」のモチーフによって貫かれている。高校三年生の段階で、日本人のほとんどは日本の大学に進学する学力しか持たない。ハーバードやイェールなど、海外の有名大学に進学するのに必要な、論理的に自分の意見を表明し、立場の異なる人と議論する能力を持たない。だから、日本の大学に進学するしかない。
茂木氏の議論もここで高校教育へと拡散していってしまう。高校までの教育に問題があることは認める。ここで指摘されているような能力の欠如は、「市民力」の弱さであるとも言えようし、1970年代以降の中等教育における政治教育の欠如 との関連も論じられているところだ(『アスティオン』72号所収の特集「なぜいま「市民力」か」の諸論考参照)。従って、中等教育の改革もまた必要なことは多くの論者が気づいている。
だが、茂木氏の議論はここでも日本の大学を一律に扱っている点で具体的な改善策を明示できていない。素朴に考えても、「ハーバードやイェールなど、海外の有名大学に進学するのに必要な」能力など、大学生のすべてに要求されるものではなかろう。問題なのは「ハーバード やイェールにも進学できるようなエリートの育成なのだ。その必要性は大いに認める。

見方を変えれば、文部 科学省と大学が結託して、日本の高校生が日本の大学以外には進学しないように利益共同体をつくっていると言えないこともない。もし、日本の高校生のうち、 最優秀の層が海外の大学に進学するといった現象が顕著なものになれば、東京大学を筆頭として、日本の大学は深い打撃を受けるだろう。
そんな利益共同体を作る結託など存在しない。最優秀の高校生が海外の大学に進学する状況は、たとえば東京大学にとって脅威だろうが、だからこそ、根本的な改革を実行する好機でもあるだろう。すでに「国際化拠点整備事業(グローバル30)」の一環として、東京大学でも英語による授業のみで学位の取得できるコースの新設が計画されている。

悲劇的なのは、それぞれの利害関係者が自分たちの利益を守るために「部分最適」を図ることが、日本の国全体としては「全体最適」につながっていないということである。誰だって、日本が良くならないよりは、良くなった方が好ましいに決まっている。ところが、高校が日本の大学の進学予備校化し、大学が日本の企業の就職予備校化し、世界の潮流と無関係になることで、それぞれの部分最適は図られているのかもしれぬが、日本全体としての適応度は明らかに劣化している。
部分最適には意味があるので、それを全否定して破壊するのではなく、漸進的な構造改革を行なわなければならない。とすれば、こうした「警世の提言」の抽象的なレベルにとどまっていることはできず、大衆化した大学の教育を底上げして質を高め、日本の企業文化そのものを変革するとともに、トップレベルの大学は国外から学生を集められるようなカリキュラム設計を考える必要がある。

このグローバル化の時代に、ハーバード大 学への日本人留学生は減っている。事態は深刻である。日本の週刊誌は、あいからず「東京大学高校別合格者一覧」などという意味のない記事を載せているが、日本の「エリートコース」に乗ろうと努力することが、かえって自身の「ガラパゴス化」のリスクを助長しかねない時代となっているのだ。
これが茂木氏の結論だ。事態の深刻さの認識はわたしも共有している。しかし、この事態に対処するには、中国や韓国と比べた場合の留学生の減少傾向の背後にある要因を探らなければならないだろう。大学院レベルで言えば、留学しても帰国後の就職口が保証されない状況では、むしろ国内にいたほうが有利だという判断が働くこともやむを得ない。学部レベルにしても、留学や修士・博士の学位を評価しない日本企業の対応が変わらなければ、結局、ブランド化した大学で4年間を無為に過ごしたほうが有利ということになる。
それで充足できるうちはそれでもいい。だが、経済状況によって国内での就職がより深刻化してゆくならば、国外に就職口を見つける選択肢が現実的なものとなるだろう。そのときにこそ、大学や大学院を出たあとでの国際競争力が問われることになる。
問題は日本の「エリートコース」なるものが、真の意味で「エリートコース」として機能しなくなっている点にある。これは「エリート」を作ることを忌避してきた日本社会の歴史の帰結でもあろう。だが、そのことを嘆いてみたところで、現状は変わらない。大学人はそれぞれの具体的な現場で何が可能かを考えなければならない。

では、どうするか。
高等研究教育に対する日本の国家予算がOECDの他の諸国に比べて相対的に非常に乏しいことはよく知られている。しかも「効率化」の大義名分のもとに、それすら削減されている(とくに総人件費)。高等研究教育への投資がもつ経済的効果についてはさまざまな実証的証拠があるにもかかわらず、社会にそうした認識が浸透しているとは言いがたい。

現在の日本の大学が抱えている危機的な困難とそのための方策については、諸大学の総長が連名で行なった「緊急政策提言」に詳しい。とくにPDFで提供されている資料が日本の高等研究教育の置かれた状況をデータで明示している。

この提言の筆頭に掲げられているのが「若手研究者の育成・支援」であることが示すように、喫緊の重要課題は大学院重点化によって増加した博士号取得者たちが、逆に減った大学教員のポストに就けずにいる事態の改善である。その背景には、すでに記したように博士が大学の研究・教育職以外に就職口を見つけにくいという状況がある。

他方、博士など、高等教育を受けた者の割合が、格段に高くなったわけでもない。むしろ欧米諸国と比較すれば相対的には少ないままにとどまっている。日本では就職状況の悪化から博士課程への進学者は近年大幅に減少している一方、中国は研究者や博士人材を急増させているといったように、量的な次元だけでも較差が生じつつある。

私見では、日本の企業風土がこのままで急速に変化するとは考えられない以上、それを変えてゆくためにも、たとえば東京大学は次のような二正面作戦で大学院教育を改革し、それを学部教育と接合するかたちで、大学全体の教育を変容させなければならないと思われる。

具体的には、企業や社会で活躍できる多様なキャリアパスのためのコースとアカデミアにおける研究上の国際競争力を確保するためのコースという2つのコースを大学院に設け、大学院修士・博士課程全体のデザインを見直すことである。つまり、

1) アカデミアだけでなく、国内外の社会のさまざまな分野でリーダーとして活躍できる人材の育成を念頭に置いたプログラムのコース(いわゆるプロフェッショナ ル・スクール・タイプ)を積極的に新設する。 このプログラムによるコースはたとえば修士から一貫で4年など、相対的に短期間で学位を取得可能にし 、社会人や留学生に大きく門戸を開く。大学はこの種のコースの理念・目標・期待される成果をトップレベルで経済諸団体に訴え、産業界との対話を深めることにより、博士号が企業・社会で正当に評価されるようにいわばリテラシーを高めつつ、大学との相互認識のギャップを埋め、博士課程修了者の就職を支援する。

2) 他方、研究者養成のためのアカデミック・コースの博士課程定員は適正規模に絞り、高度な専門教育と研究指導、学生の研究条件を充実させて、トップレベルの研究者を育成し、アカデミアへの就職までのキャリアパスをきめ細かくサポートする。たとえば、明確な目標と国際ネットワークを掲げて組織された高等研究拠点をコアに博士課程を設計し、海外諸大学と連携したGraduate Student Conferenceなど、国際的な共同研究活動を行なうような教育課程を提供する。
 
以上のような2種類のコースに峻別することで、大学院へ入学しようとする学生に明確な目的意識をもたせるわけだ。

ただし、学部卒業での企業就職率が高い文系の場合には、博士号取得コースを二分するのではなく、プロフェッショナル・スクール型の修士課程しかないコースを設け、それを博士課程まで有する研究者養成コースと区別するほうが現状では実際的かもしれない。さらに後期課程(2年間)と修士課程(1年間)を連続させ、この3年間で修士号が取得できるコースの設定も考えられる。

企業と大学の連携に関しては、日本経団連産業技術委員会・産学官連携推進部会大学院博士課程検討会「大学院博士課程の現状と課題(中間報告)―次代を担う博士の育成と活用に向けて―(PDF)」(2007 年1 月9 日)参照。また、一貫コースの先行例としては、東京工業大学における博士一貫教育プログラムがある。

研究者養成の場合、現在修士と博士が分かれている場合にも博士5年間制の一貫したコースとして、大学院入学当初から博士号取得のための研究計画を立てるカリキュラムにすることが考えられる(ただし、修士号取得後の中途退学はあくまで例外扱いとする)。この場合、コース内審査を経たうえで国内外の査読付き学術誌への複数の論文掲載によって修士号を与えるなどの措置をとる。なお、このアイディアについては、次のサイトの記事から示唆を得た。viking - 大「脳」洋航海記「囲い込みってやつですよ」(2006年5月14日)著者は神経科学系のポスドクであり、ポスドク問題についての情報と提言が豊富である。

これらはごく部分的な問題に関する暫定的な提案に過ぎない。だが、政府や政治家、経済界の変化を呼びかけて待つのではなく、大学自身が主体的に立案した具体的な改革を行なうことによってしか、この事態はもはや打開できない状態にあるのではないか。明確な国家意志に基づく成長戦略が示されないまま、もっとも基盤をなすべきこうした領域への高等研究教育予算が削減されてゆく状況下では、人件費の捻出による若手研究者の採用といった点にしても、大学教員自らがいわば身を削って後進に道を開くしかないかもしれない。もはや、縁故採用や65歳以上〜70歳代の教授が(特任ではない)常勤ポストを占めているような教員構成など、私立大学であっても、あってはならない事態だと思う。

冒頭に戻って、茂木氏の危機感には共鳴する。国家意志というものがあるとすれば、日本のそれは漠然とした不安のもと、「仕分け」などという景気が悪くて内向きの陰湿な足の引っ張り合いの果て、無意識の裡に積極的に衰亡を「意志」しているのではないか、とも思う。

だが、恐らく優雅な衰亡は起こらない。徐々に崩壊するのを待つのではなく、変化を先取りして、一挙に変貌することが、大学には求められているのだろう。

註:「ガラパゴス化」について
この言葉が指すのは、ガラパゴス諸島における生物の特殊な進化のように、技術やサービスなどがとくに日本の市場で独自の「進化」を遂げ、世界標準から掛け離れてしまった現象のこととされる。Wikipediaの記述にも

    生物学的には、そもそも、進化はみな生物が置かれた環境に対して適応した結果で、ある種の進化とそれとは別の環境に住むある種の進化に優劣を見出すこと自体が進化の考え方になじまず、「ガラパゴス諸島の特殊な進化」はそれ以外の多くの地域での進化に比べて否定的にとらえられる存在ではない
とあるように、たとえそれが極端に特殊な進化であっても、本来否定的な意味はもたないはずだ。「ガラパゴス化」という言葉に居心地の悪い思いを覚えるのは、 「特殊な進化」が文化においては価値のある重要な営みである場合が多いからである。たとえば、文学作品とはそれぞれの言語における「特殊な進化」の精髄ではないだろうか。もちろんそこでも翻訳は可能だが、翻訳しえないものの価値もまた無視しえない。
「ガラパゴス化」なる言葉そのものがネガティヴな含意をもった曖昧な比喩であり、「特殊な進化」の産物にも見える。科学技術論なり、文化論の分野でもっと明確に定義づけられた用語が望ましいと感じられる所以である。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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