知の「食」 - Blog (Before- & Afterimages)

知の「食」

 ネットである程度見られると思うから検索ですませてしまうけれど、やはり雑誌は手元に置いておき、持ち歩いて読まないと、知識の「食」が細る気がする。当座の仕事をメインにした検索ではせいぜいカロリーを満たす程度だろう。
  オリジナルの草稿を読んでいる充実感はかけがえがないし、そこから拡がる未知の領域も確かにあるのだが、これは高級食材を素材だけで味わっているようなもの。建築家・白井晟一は、米を炊いた竈の蓋をとった表面の部分を直接食べる「かまじか」が一番うまい、と語ったという。この「かまじか」とはそんな素材の味そのものだ。
 ある種の(あくまで一部の)新書はファストフードということになるだろうか。糧にならないわけではないが、それだけでは体がもたない。雑誌はおのずと多品目になるから、好き嫌いなく食べてゆけば、それなりに知的栄養にもなる(編集者が良ければ)。書物をコース料理に譬えるのは悪のりのしすぎかもしれない。
 「二番煎じ」とはよく言ったもので、書物についても、「二番煎じ」でしかないことを「味」分ける舌が欠かせない。そんな舌をもつために前提となるのは、読書量に基づく知識・学識ではあるのだが、それだけでは足りない。同様のテーマや素材を用いながら、二番煎じに堕していない味わいを作り出す文体に対する繊細さもまた不可欠だからだ。要は料理人の腕次第である。
 さて、自分を省みれば、食が細ったのは確かで、写本を忠実に写す修道僧のような「写字生」になりたい(オリジナルな史料の発掘に励みたい)と思ったりするのは、理想としては一汁一菜で暮らしたいという食への願望とつながっているのかもしれない。さらには、純粋に素材だけの微妙な味わいを感じたいという欲望へと。微かな苦み、仄かな甘さ、一瞬の酸味、遠く逃れ去ってゆくようなそれぞれの味わい・・・・・・。
 書物には複雑霊妙な味を求めてしまうため、題材の捌き方が下手だったり、大味だったりすると、すぐ興ざめしてしまう。入門書や概説書を書くことにまだあまり関心がもてないのもそのせいだろう。頑固な蕎麦打ちの美食家みたいなものか。客に注文をつけるような料理人は嫌いなのだが。
 ざっくばらんに言えば、入門書・概説書が定食に見えてしまう。そのあたりが「料理人」としての現時点での自分の限界だとは思っている。定食屋や民族料理専門店(あるいはその兼業)が、輸入学問に携わる「知の職人」としての学者の本分かもしれないが、自分が作るとなると、どうもお客の顔が見えない料理になりそうだ。
 書物を作るうえでは必然的に視覚的要素に気を配る。しかし、自分が書物を編むうえで無意識に参照してきた作品の形態はむしろ音楽のそれだったように思う。それが今、いわゆる低級感覚である味覚や嗅覚こそが、書物において経験されるべき知覚であるように思えてきた。──読み進むうちは精緻に映像を描き出し、書物全体でテーマの和音が巧妙に奏でられていながら、読後には茫漠とした味わいや薫りの記憶しか残さないような、そんな書物に憧れている。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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