大学の危機──冷凍される文化遺産か - Blog (Before- & Afterimages)

大学の危機──冷凍される文化遺産か

ハノイから帰国後、ずっと体調が優れず、午前中の会議も含めて休ませてもらった一日。本郷では「明日の東京大学−危機に立つ財政」(説明会)という催しが開かれていた。民主党政権の「思いつき」で進められている「政策コンテスト」に関する意見募集(パブリック・コメント)への対策の一環と言ってよい。

「政策コンテスト」とは、10月19日までに募集される「国民の意見」に従って予算の優先順位を付けようとするものだ。1兆円の争奪をめぐって、あらゆる業界から動員された組織票が動くことになるだろう。文部科学省の予算に依存している大学も例外ではない。

この弱肉強食の論理の元では、自己防衛のために何でもすべきだし、即物的に割り切って実行するしかないだろう。政府が予算編成の判断を半ば「国民」に預け渡して、代議制によって託された方針決定の責任を放棄しているようなものなのだから。よしんば逆に、ここで吸い上げられた「国民の意見」が無視されて最終的な予算配分が決まったとしたら、それはそれで茶番ということになる。いずれにしても、予算編成という最重要の政策決定のシステムがやや実験的に試行錯誤されている現状は、産みの苦しみと言うにはあまりに重篤な病に陥る危険を孕んでいるような気がしてならない。

本来考えるべきは、大学をどうするか、東大をどうするかよりも、(高等)教育をどうするか、高度な研究をどうするか、だろう。その限りで言えば、大学という公的機関のみが学術的実践の場ではない(もちろん専門とする領域による)。あくまで人文系の自分に近い分野に限定するならば、ヴァールブルク文化科学図書館のようなアーカイヴをコアにした私塾、オープンだがプライベートな研究所のような形態こそが理想かもしれない。

政府・財務省・文科省のそれぞれの思惑に作用されるような大学という組織(とくに資金面で)に、完全に自由な決定の余地は少ない。今のような非常事態では、巨大組織であればあるほど、経営努力や機構改革、つまり、システムの見直しが必要になる。これは教員個人の精神論では到底解決しない。

大学教員や研究者が魅力的な職業であるためには、社会へのしかるべきアウトプットによってそれを示さなければならない。そして、その魅力ある職場を支える基盤の維持を訴える必要がある。その必要性や義務はわかっている。

しかし、結局のところ、個人なり、研究者集団が輝いていなければ、魅力など感じてはもらえないのだ。ただ、大学をめぐる諸々の諸条件の悪化は、教員や研究者の創造力を奪う方向にばかり進んでいるように思われてならない。高等教育や先端的研究にこそ、そうした創造力を育む条件が必要なのに。パブリック・コメントで必死に基盤となる研究費の維持を訴えなければならないほど、大学は零落れてしまったのか。

そして、英国ではヴァールブルク研究所すらもが、危機にある(Save the Warburg Library!  執筆はアンソニー・グラフトンほか)。ロンドンのウォーバーグ(ヴァールブルク)研究所の図書館が、大学側からのスペースチャージの要求に応じて、小さい施設に移転し閉架式にしなければならないという(これはその本来の独自性の喪失を意味する)。ロンドン大学の図書館と一体化されたら、蔵書が売却される恐れさえある。そして、ロンドン大学がこの愚行をあえて行なおうとするならば、ドイツにヴァールブルクの蔵書を返還する運動がありうるかもしれない、とこの論説は結ばれている。

英国の大学行政が予算難から滅茶苦茶になりつつあることは聞いていたが、これもそのひとつの表われに違いない。いずれにせよ、分類法や開架式の配置という、デジタル化できない部分を特質としている図書館を解体しかねないこの動向は、かなり致命的だと思う。「蔵書を独立した一体として扱うべし」としたヴァールブルクの遺族と大学との当初の取り決めに違反する現状の成り行きに対して、ヴァールブルクの子孫は激昂しており、「スキャンダルだ」と述べているそうだ。

こうしたスペースチャージは資金捻出のために大学が使う方法のひとつである。部局(学部・研究所など)に利用面積だけ課金して本部が吸い上げる。外部から資金が入ってこないのだから、大学全体としては何のメリットもないのだが。

ロンドンの地価が高いとか、大学の財政担当者の見識とかは、どうでもいいというか、副次的な問題だろう。ある種の効率性優先の論理にいったん乗っかってしまったら戦うことができない。ひとつの「文化遺産」なのだから「保存」すべきだ──重要なのはそれだけ。

それにしても、大学という制度の脆弱性をまざまざと見る思いがする。資金の効率的運用(何のための?)や(学生という)顧客の満足度などというものとは究極的には関係のないところで研究がなされたり、資料が蓄積されたりする必要性は確実に存在しているはずなのだ。そうでなければ、何のための学問であり、知識なのか。

ヴァールブルク図書館はそもそもプライベートな施設だったので、本来は巨額な資金的裏付けを元にプライベートなものとして、しかし公的に開かれたかたちで存在すべきなのかもしれない。そんな資金提供者は恐らくどこにもいないのだけれど。例えば、英国からの移転を呼びかけ「A great opportunity for an entrepenurial university in North America or elsewhere! 」と書いているブログもある。だが、今の日本ではとても無理だろう。ハンブルクのヴァールブルク・ハウスに蔵書を置けるだけ置くと言うのが、本来の性格からすれば良いのかもしれない。しかしその場合にも、ある状態で「冷凍」して文化遺産として保存すべきか、研究所内の生きた図書館として、研究者集団によって組み替えられてゆく生命体として存続させるべきか、という選択が難しいところだ。

日本の大学もまた文化遺産として冷凍保存され、財政状況の改善ののちに、「解凍」される日を待つ運命にあるのだろうか。言うまでもなく、それは生きた「知の森」の死滅である。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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