建築と映像の際 - Blog (Before- & Afterimages)

建築と映像の際

10月初めに黒沢清さん、鈴木了二さんとトークイベント「映像の際」に参加した。まず三人のプレゼンテーションがあり、自分の発表についてのアウトラインはこれ。ちなみに鈴木了二さんのプレゼンは、1980年代から2000年代までの自作を回顧して、東京の変貌に接続する内容で、1.標本建築、2.空隙モデル、3.墓・空洞モデル、4.海・空地、5.住宅:空洞三部作、6.歴史、7,Dubhouseといった構成だった。黒沢さんは自作に基づき、フレームの外部にある出来事が暗示されることで生じる、見えそうで見えない状態の無気味さ、不安について解説した。
その後の討議のために当日用意された鈴木了二氏による黒沢作品分析のスライドは200枚ほどに上り、1.原型建築、2.開口・ドア、3.踊 り場、4.空地、5.リキッドと分類されていたそうだ。会場では1のごく一部のみが紹介され、鈴木さんによる高速の解説・質問と黒沢さんの種明かし的なコ メントがあった。このままでは残念なので、全スライドを上映する「黒沢清+鈴木了二」ナイトを実現するように、「建築の際」主催者の皆さんに希望した。

ミー スにしてもテラーニにしても、自分の論点はもともと鈴木了二さんの強い影響を受けているから、出発点は同じになってしまう。そういえば、ミース論ではミー スの「底なし=底抜け」性のギャグをジャック・タチの『プレイ・タイム』に比べてみたのだった。そして、バルセロナ・パヴィリオンという「奇妙な「全体」 が成立するにいたるのは、亡霊としての主体というこの「例外」が作り出されることによってなのだ」(『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』)と十年前に 書いていた。

「マラパルテ邸の岬の岩盤もこの建築の一部」という鈴木さんの指摘で、ミースのベルリン新国立ギャラリーの埋め込まれた地下部分 に、ゲーテが「花崗岩について」で論じた、それ自体は形態をもたない岩の物質性を見るという議論を思い出した。ミース論で自分がそこに付け加えたのは、こ の花崗岩には亀裂が縦横に走っていたという点だった。ゲーテはその亀裂を発見して戦き、「ここには最初の古い状態にあるものは何もない・・・あるのは皆瓦礫と無秩序と破壊ばかりだ」と書いている。ミースの完璧なフレームは地下で破綻している。

ミース論と同じ年に出した『都市表象分析I』も 「非都市」をめぐる形式(=フレーム)の内と外の論理をめぐっていたと言ってよい。自分が何であれ実作者であれば、そこにとどまっただろうが、実際にはア プローチは変化した。問題はもはや非都市ではなかった。そこで「都市の寓意」として見出そうとしてきたのは、打ち砕かれた花崗岩の断片、「歴史性のかけら」だったのだろう。

映画と建築の際が「フレーム」だとすると、人を亡霊化するミースの建築とは映画ではないか。そして、映画も建築も、あるいはまたあらゆる出来事も、「忘れられることによってしか記憶されないからこそ戻ってくるもの」だとすれば、それは亡霊であろう。

さて、黒沢監督によると、『アカルイミライ』で舞台となる獄中の登場人物・守の接見室は、元々屋外にあった階段を利用して作られたセットなのだそうだ。だからそこを照らしていた異様な光は太陽光だったことになる。そして部屋の中央にあってフレームを斜めに切断する、異様な階段──打ち合わせの席で数えてみたら、それは13段あった。・・・・・・だから、映画はおそろしい。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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