高等教育と学術出版 - Blog (Before- & Afterimages)

高等教育と学術出版

 教養学部報で高田康成氏がイェール大学への出向からの帰国報告──「感慨がない」という感慨──を書いている。かの地の大学教育をめぐる状況と東大・駒場の状況との格差について述べたものだ。そこでオックスフォードの日本研究者Roger Goodman教授がイェールで行なった講演が紹介されていた。日本における高等教育の崩壊をめぐる内容であるという。理系は別として(ということは文系には)まともなカリキュラムがなく、したがって評価のシステムもない云々、といったことらしい。
 問題の講演については内容を示す文書は見つけられなかったが、Goodman教授の最近の論文(参照)は見つかったの で読んでみる。極めて客観的な論述で、概ね納得する。蓮實先生の「本当は教育が嫌いな日本人へ」という文章(2008年)の存在も教えられた。なお、 イェールにおけるGoodman教授の講演原題はThe Collapse of the Japanese Higher Education System?であり、?マークが付いている。客観的なデータに基づく議論をする人らしいから、伝聞した、極度に批判的な印象とはたぶん異なる内容だろう。

 Goodman教授の論文と同じ号に日本の大学の国際化をめぐる論文(参照)もあって読んでみる。この現状分析にも 異論はないし、G30など、日本の大学の国際ランキングを上げようとする努力自体の無理矢理さ(だから困難)に関する指摘もその通りだろう。しかし、 Goodman論文同様、よくできた現状の紹介以上のものではないと思う。

 むしろこの論文中で、「日本は、学術出版を(少なくとも人文社会科学で)自国語で行い続ける最後の存在になるだろう。仏独の研究者だってもっとずっと英語で書いている」という主張の例として挙げられている論文が気になった。なんと陳腐な主張かと。

 そこで調べると原典はこれ。読んでみたら引用の印象とは大違いで実に面白い。10年前の論文なので今とは事情も違うが、日本の大学の学術出版の形態をむしろ評価している。

 著者は文化人類学者で、まさに文化人類学者らしく、米国や英国の、業績作りのために量産される理論偏重の雑誌論文の方がアブノーマルなものかもしれな い、と相対化したうえで、日本の形態を特殊な閉鎖性と見るのではなく、かつての英米の学術出版のあり方を継承しているのだ、と切り返す。

 もちろん、日本の学術出版における英語による発信の少なさは改善すべき点として認識されている。だが、それ以上に、英米の人文社会系学術出版の問題点も 踏まえて、それを大学でのキャリア形成と絡めて論じているところが新鮮だ。ただ、そこで肯定的に語られている日本の大学の状況は、その後、劇的に悪化して しまったが。

 著者の専門とする文化人類学の分野では、英米の学術の慣行となってしまったものが、日本(や大陸ヨーロッパ)が体現しているかつての伝統とずれていることの方が大きな問題で、使用言語は二の次ではないか、という見方がここには示されている。

 そして、英米の学界が、最新流行の理論志向でジャーゴンを増やし、やたらに参照文献を列挙するスタイルで非英語圏研究者との溝を拡げる一方、日本の学界 がそんな英米のスタイルを踏襲しつつ、しかし、日本語で同じことを行なえば、同床異夢のまま、幸せに現在と同じ状況が続くだろうと、皮肉たっぷり。

 枝葉末節部分の引用から原典を評価してはいけない、ということを学んだ次第。

 最近出席した広報関係のある会議では、大学の専攻に「自前のメディアがあると強い」という指摘があり、研究紀要もその一例という話があった。今や「閉鎖 的だ」「ガラパゴスだ」と言われがちな大学の紀要にも、メディアの生態系のなかでは、一定の役割があるに違いない。それをどう活かすかが問題だろう。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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