Blog (Before- & Afterimages): 2011年2月アーカイブ

2011年2月アーカイブ

『みすず』読書アンケート特集

五十嵐太郎さんに『イメージの自然史』を取り上げていただきました。ありがとうございました。

わたしの回答は次の通りです。

Frank Ankersmit, Sublime Historical Experience. Stanford, California: Stanford University Press, 2005. 
 コンメディア・デッラルテに登場するナポリ発祥の道化役プルチネッラについて調べていて行き当たる。絵画に描かれたプルチネッラを論じ、18世紀末、崩壊寸前にあったアンシャン・レジーム下における倦怠感という、特定の時代の雰囲気をそこに読み取る論旨。「主観的歴史経験──悲歌としての過去」と題された同じ章で取り上げられているもう一つの対象が、同時代のロココ様式の装飾「ロカイユ」であったこともまた関心をそそった。
 本書は「言語」から「経験」へという現代思想のパラダイム転換──この観点からローティの哲学などが精査される──を背景に、歴史経験の諸相について考察した論文集である。トクヴィル、ホイジンガ、ブルクハルトといった歴史家による過去の経験のありよう──過ぎ去った時代の息吹きや雰囲気を直接に感知するような経験のあり方──がそこで探られてゆく。ヴァールブルクがニンフ論を構想するきっかけとなった友人アンドレ・ジョレスがホイジンガの友人でもあり、『中世の秋』の霊感源となった絵画との遭遇の現場に立ち会っていたという思わぬ知見も得た。
 タイトルの「崇高な歴史経験」とは、フランス革命のような、アイデンティティの根本的な変化を伴う歴史上の集団的トラウマを意味する。そこでは過去が「決定的に喪われたもの」と化して歴史経験を形作る。そうした経験から生まれるノスタルジアとメランコリーは、この書物を支配するものでもある。
 本書を貫くのは歴史を「科学」ではなく「手わざ」や「芸術」(つまり、美学=感性論的な対象)として捉える、歴史理論の「ロマン化」への志向だ。エピローグの最後にはヘルダーリンの『ヒューペリオン』が引用される。読後には保田與重郎『萬葉集の精神』が連想された。ジルベール・クラヴェルという人物の手紙や日記を解読する作業に没頭している最中、その行為それ自体がもたらす経験の反省を強いる内容が深く記憶に残った。

 数日後、ホスピスは死に絶えたかのようだった。そこはどんよりと、枯れ果てた秋の庭のなかに見捨てられて、活動を停止していた。葉の落ちたプラタナスが真っ直ぐな道に立ち並び、風が枯れ枝から最後の葉を情け容赦なくむしり取っていた。青い煙のようにかすかな霧が立ち上り、色彩のない薄明へと移行していった。窓ガラスに雨が弱々しく打ち付けていたが、あたかも指先が触れたかのようで、その音はほとんど聴き取れなかった。
 その娘は再び薄明のなか、僕の前に座っていた。僕らは互いのことをほとんど知らなかった。僕は子供のように彼女に話しかけ、彼女の身近にいる自分を感じた。
 「君はロシア人なの?」
 彼女はうなずき、足をほんの少し動かした。そして微笑んだ。「女性革命家。わたしが誰かは、ほかの人のほうがよく知っていたわ。」
 「何もかも聞いていたよ」と僕は答えた。
 「それであなたはわたしをどうお思いになって?」
 「彼らのお喋りはどうだって良かったんだ。だって、僕は君のことをもう知っていたんだから。」
 「あなたが?」
 「そう。」
 「でも、わたしたち、話したことはなかったわ。」
 「確かにそうだ。あれは今晩のような夕闇のなかだった。窓ガラスから光が差し込んでいて、君の両手だけが見えた。」
 「奇妙な様子だったに違いないわ。」彼女は両目のうえを撫でた。「たぶんわたしは故郷にいたのだわ。自分の国のことを考えると、ひどくぼんやりしてしまうことが多いの。大草原[ステップ]はお好き?」
 「僕が知っているのは砂漠だけだよ。そして砂漠は広く、無限だ。そこは静かで人を寄せ付けないけれど、夢をもたらしてくれる。」
 「その通り。海もそうだわ。海も似た感情を引き起こしてくれる」とアージア(Asia)は言った。そう、それがこの娘の名だった。
 彼女の大きくて黒い眼が突然輝き、僕は驟雨を浴びたように、彼女の物腰に宿る異質さを感じ取った。
 外では雨が窓ガラスを打ち、風が隙間から吹きこんでいた。誰かが部屋を横切ったかのように、ドアが自然に開いた。
 「君は最初にどこで海を見たの?」と僕は軽く聞いた。
 アージアは青ざめた顔をうなだれた。「実際に眼にしたことはないの。ステップがザワザワと音を立てるのを聞いたとき、想像のなかでだけ。」
 彼女は両目を閉じた。暗い部屋は静かだった。僕らのほかには風と雨だけだった。
 そして再び、彼女の内面から灯りのような何かが輝いた。
 「明日わたしは出発するの。明日、なんて嬉しいことでしょう。」彼女はふところで両手を強く合わせた。頭を振り、笑った。僕ははじめて、白くて鋭い歯が輝くのを見た。
 「ロシアに戻るの?」と僕は尋ね、彼女がそんなに喜んでいるのを侮辱のように感じた。
 彼女の表情は再びまったく平静だった。「いいえ,違うわ、南へ、ナポリへ旅行するの。」
 僕は無関心な様子に見えてほしいと思った。自分が彼女をどう感じているのか、僕は彼女に悟られたくなかった。
 だから僕はほとんど関心のなさそうなそぶりで言った。「それじゃあ、僕らはそこで会うね。」
 彼女はびっくりして僕を見つめた。
 彼女の表情は、問いとも答えともつかぬ、まったく曖昧なものだった。その小鼻はぴくぴくと動いた。(了)

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 次の日の朝、ホスピスの食堂では活気のある議論が起きていた。年老いた婦人が朝食のテーブルのうえで夢中になって身ぶりを交えて話し、その熱中した口調のせいで、いつもならば打ち込まれた杭のように閉鎖的な距離を守っていたホスピスの客たちは、半ば飲みかけのカップを脇に押し退け、テーブルのうえに交差するように身を乗り出していた。元気のいい婦人は、その他の部分では動きのない顔のうえに、皺によってまさに怒りの大嵐を呼び起こしていた。感想や偏見、批判によって盛り上がった高潮が、経験豊かな眼からほとばしっていた。それらは鵜呑みにされ、即座に咀嚼された。語り手の言葉は、教会や美術館の訪問を忘れさせてしまうほどの印象を生み出した。フィレンツェは、いや、キリスト教ホスピスは、長らく待ち望まれていたような、噂話好きの巷と化していた。
「こんな無作法なこと」と老婦人は言い、その茶色い眼が眼鏡のガラスに突き当たった。「自分で経験しなければ信じられませんわ。一瞬たりともわたしは彼女から眼を離さなかったのに、ローザンヌでわたしたちがジュネーヴ行きの列車への接続を待っていたちょうどそのとき、彼女はわたしから離れ、線路を横切って走り、野蛮そうに見える男を出迎えて、わたしは気づかなかったけれど、その男は彼女にウィンクをしていたらしいんですよ。」
 「まったく恐ろしいことですわね」と痩せた英国人女性が言った。彼女は60がらみにもかかわらず、灰色の髪に赤いヘアバンドを着けていた。「ほとんど革命の陰謀か何かが関係していたみたいじゃありませんか。」
 「それは違うわ」と老婦人はやんわりと否定した。「急行列車は彼女を轢きかねなかったんですよ。彼女がわたしの視界から消えたとき、その列車は轟音を立てて駅に進入してきたのですから。」
 「でも、あなたは彼女を厳しく叱ったのですよね」と太ったドイツ人の牧師夫人が言い、手持ちの片眼鏡の下で、額に山形の皺を寄せた。
 「もちろん」と老婦人は答え、指でこつこつと叩いた。「わたしは非難の言葉を用意していたのですけれど、彼女が駅員に捕まえられて連れてこられたとき、わたしはまったく途方に暮れてしまって、とりとめもないことを喋り、一方で彼女のほうは、わたしを大きな眼でじっと見つめていました。」
 この予期せぬ打ち明け話によって、一瞬のあいだ、沈黙が支配した。その発言は検討され、吟味され、判決を下された。明らかに老婦人には使命を果たすだけの力がなかったのである。
 灰色の髭をした学校教師──その赤らんだ皺の寄った首は低い襟のなかに埋もれていた──はため息をついた。「しかし、厄介な責任をともなうものですな、若い娘というのは。」
 「革命家の女性はね」と牧師夫人が付け加えた。
 「ひょっとしてこの恐ろしい女の子は監獄かシベリアから脱走してきたのじゃないかしら。彼女の素性について何かご存じですか。」英国人女性の鼻は今や弓矢のように老婦人に向けられたので、彼女にはそのキリスト教徒としての義務感や率直さがだんだん厭わしく感じられてきた・・・。
 「それについては何も詳しく知りません。けれど、あの哀れな娘はつらいことをたくさんくぐり抜けてきたように思えます。」
 ホスピスの女性管理人が食器を片づけはじめた。彼女は老婦人からカップとスプーンを取り上げた。この女性はそれらで自分自身に対して自分自身を同時に守っていたのだが。
 あれほど熱心に始めたのに、今や老婦人はまったく放心の態なので、牧師夫人が思い切って一石を投じた。「あなたがこんな子のような疑わしい人物と一緒に旅する決心ができたなんて、信じられないことだわ。」
 この瞬間、ドアが開いた。若い娘が入ってきて、あたりを見まわし、老婦人の隣に黙って座った。
 牧師夫人の話は唐突に断ち切られた。彼女は困惑しながら、きゅっと結んだ唇に舌を押し当て、大きなブローチを手でいじり回すことで、何らかの結末を探した。彼女は咳払いをしたが、それを見出すことはなかった。彼女のモラルの結末を。
 彼女に向かい合って、二つの大きな、落ち着いた眼が輝いており、それを前にすると、牧師夫人の視線は沈み込み、自分や同席者たちを支配している気まずい沈黙を克服することが彼女にはできなかった。
 ホスピスの女性管理人が再び皿をいくつか片づけた。とうとう誰かが時計に手をやった。教授は自分の行く博物館の名を口にした。その場の人々は、黙ったまま会釈して、散り散りに別れた。(続く)

Paul Zoe: Magie

Paul Zoe (Paul Zoelly), Magie. In: Paul Zoe, Büchlein des Bruderholz Schwärmers. Basel: Selbstvlg., 1928.

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MAGIE

Positano mondversilbert,
Sitz des Grafen Gilbert.
Wogen drohen, spritzen,
mit Wünschelrute Witzen
Gott Kubismus Frauen,
besänftigt er das Grauen.
Paris Berlin Türkei,
alles strömt herbei,
denn im alten Räubernest
ist jetzt alle Tage Fest.


魔術

月光で銀色に輝くポジターノ、
ジルベール伯爵の居城。
波がうねり、脅かし、吹き付ける、
占い棒に機知
神、キュビスム、女たちによって、
彼は恐怖を宥める。
パリ、ベルリン、トルコ、
すべてがここに押し寄せる、
なぜなら古き盗賊の巣窟では
今や毎日が祝祭なのだから。

『奇想の美術館』書評

日本経済新聞にアルベルト・マングェル『奇想の美術館』書評を寄稿しました。
書誌情報は
田中純「アルベルト・マングェル『奇想の美術館』書評」、日本経済新聞2011年1月30日朝刊21面。
 あれから二年。僕はフィレンツェのキリスト教ホスピスで暮らしていた。この家を人がどう呼んでいようとも、そこでの滞在はわびしいものだった。清潔だが、殺風景な部屋で、数少ない客同士が交際し、彼らはこの家の性質を自分たちのわびしい表情に反映させていた。ここには色彩がなく、喜びもなく、ここに暮らしているのは、ただ安いという理由だけからだった。
 僕は別の理由もあってここにいた。健康状態のせいで、病気になった期間中も世話が受けられる住まいを探さなければならなかったのだ。職のない女性教師や女性の家庭教師が宿を求めたこのホスピスに、ある公益団体が病院を設けていたのである。だから、病気になったと感じたら、赤十字の看護婦たちが働いている、半地下の部屋が割り当てられるのだった。僕も一度彼女らの世話になったことがある。当時僕はチフスのような腸の痛みに苦しんでおり、カプリ島から帰ってきたところだった。
 しかし、僕が書き留めておきたいことは、ホスピスやその設備とはほとんど関係がない。今それを思い出しているのは、過去数週間のうちにさらに展開を見せた、ある体験の背景になっているという理由のみによる。
 フィレンツェでは冷たく湿った秋の天候が続いていた。僕は美術館を訪ね、たいてい晩になってようやくホスピスへ帰ってきた。このときそこで暮らしていた客は数人しかおらず、小さなラウンジで紅茶を飲むたび、使用人の誰も灯りをもって来ず、夕闇に包まれてしまうこともしばしばだった。そんなある夕暮れ、僕は一人の少女と向かい合っていた。その異様な外見によって、彼女は僕の注意を完全に引きつけた。
 彼女は僕の前の黒いクッションの付いた安楽椅子に、黒一色に身を包んで座り、一冊の本を読み、凝視していた。その本は白い光のように薄闇を通して輝いていた。しばらくして、彼女が半ば放心状態でその本を閉じたとき、小さな両手がその位置に移った。窓の外では街灯に火が点された。窓ガラスを通して、細い光の帯がほのかに輝き、少女の顔を緑がかった白色に照らした。ぎらぎらした光が彼女を不快にさせ、薄暗がりのなかに頭部を沈めたので、光は彼女の両手だけに貼りついたようにとどまった。
 この姿勢で彼女は動きを止めた。黒い繊細な巻き毛は果てなく拡がる闇に溶け込んでいた。僕は彼女の両手だけを見ていた。それは切り取られた生命の断片のように、僕の秘かな凝視に捧げられていた。部屋には死の静寂が満ちた。外では市電が金属音を立て、御者が叫び声を上げて馬をせき立てていた。木靴がカタカタと鳴り、重い扉がバタンと閉まった。
 僕の前の小さな白い両手は神経質に震え、時折、それが置かれている闇の平面を丸めるように動いた。その繊細な指は痙攣し、伸ばされ、僕は指の爪のかすかなかき傷に気づいた。そして再びこの手は静かにふところに横たわり、そのうえに落ちる弱々しい光に照らされた。それは死者の手のように見えた。
 そんなふうに彼女は暗闇と僕とにまったく委ねられていた。けれど、僕には彼女の内面で何が進行しているのかがわからなかった。僕らは互いに相手を認識していたわけではなかった。ひょっとしたら、彼女はそこに誰かがいることに、一度も気づかなかったのかもしれない。彼女は夢を見ていたのだろうか。
 僕は部屋を立ち去った。彼女は身じろぎもしなかった。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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ReaD 研究者情報
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