西村清和『イメージの修辞学──ことばと形象の交叉』読後メモ - Blog (Before- & Afterimages)

西村清和『イメージの修辞学──ことばと形象の交叉』読後メモ

以下、備忘のため。 
「イメージ」をめぐる原理的な考察に始まり、小説と絵画それぞれのナラトロジーを検討したうえで、ことばとイメージが直接に関連し合う挿 絵をめぐって歴史的な分析にいたる、大変明快な構成であり、段階を追って明晰な議論が展開されている。第I部で知覚像との差異において心的イメージの曖昧 さゆえの効果を指摘し、隠喩という概念のインフレーションを明快に批判して、隠喩をあくまで言語的現象としてとらえる視点は、ことばとイメージの関係性を 分析する基盤として大きな価値がある。第三章では、新しい「イメージの解釈学」がイコノロジー批判から出発しながら、「見る」経験をそれ自体として語り得 ない隘路がおのずと浮き彫りにされたように思われた。

「見る」経験と「読む」経験が異なるからこそ、ことばが「視像への情熱」をかき立 て、イメージが「ことばへの情熱」をかき立てるという第I部の結論は納得がゆくものだが、では、「ベッチマンがそこで沈黙した」(p.129)という「イ メージの意味」はどう「語る」ことができるだろうか? バルトの言う「第三の意味」あるいはプンクトゥム、それは語り得ないのか? バルトにあって、 「脱・命名」は抽象画の「物質的シニフィアン」に向かう。確かにそこでは具象が描かれている場合についての問題は取り逃されるが、果たして、抽象画につい て触れれば「脱・命名」つまり「非ないし脱言語的な」「意味」について明らかになるのだろうか? 

このような問いは、わたし自身が『都市の詩学』でアルド・ロッシの建築物や建築ドローイングのイメージと詩の関係について考察した経験に由来している。物語性やナラトロジーとは別の次元でことばとイメージとの照応ないし競合を考察しうるだろうか?

ここでは「読む」経験と「見る」経験が対比されているが、では「聞く」経験についてはどうだろうか? ことばを聞くことと音楽を聴くこととの差異は? つまり、音声的な「イメージ」とは何か?

第 I部はことばと絵画で終わっている。それが第II部の小説と映画の問題に写されるとき、「物語」と「描写」という二点で両者は結びつきやすくなる。つま り、絵画や、ここでは触れられない写真が孕む「非物語性」の問題が抜け落ちる。バルトが「言語のあちら側」と呼ぶ運動は、言語が言語自身の「あちら側」に 達しようとする運動と呼応するのではないか?

第2部における小説と映画の差異、「物語」る小説と「描写する」映画の差異の明確化と、とくにそれに続く、両者に通底する物語の「語りのモード(叙法)」における「視点」の分類は、汎用性がある強力な分析装置であり、非常に啓発的だった。

異 なる記号体系である小説と映画が類似した「効果」をねらうという観点は十分納得がゆくが、「小説の映画化」という問題設定はあらかじめ、「画像をあいまい にしか与えてくれないからこそ、映画化を誘発する小説」に対象を限定しているように見える。つまり、たとえばある種の詩のように、まったく画像化が想定で きない言語表現も存在している。それらはむしろある種の描写的な絵画や映画に単なる「効果」を超えて近づくのではないか?

第3部について も、たとえばフリードの没入をめぐる議論が批判的に検討されて強力なフレームワークとして解釈し直されており、その他の「母と子」をめぐるモチーフなどと も合わせて、ときとして混乱しがちな論点に対し、明快な整理が議論の明晰化を実現している。フリードがパラドクスととらえた点を「美的イリュージョン」の 概念によって解決している点はとくに啓発的だった(p.271)。肉眼の視角と語りの視点の峻別によって、明晰な分析が可能になっている。

第 4部における「小説と挿絵」の議論は一見したところ小さな主題に見える挿絵を理論的に豊穣な問題を孕んだ場として示した、きわめて興味深い分析になってい る。挿絵の些細な変化が「語りのモード(叙法)」における「視点」を表わすという論点はたとえばルソーの作品に対する挿絵を通じて、小説との関係で明快に 論じられている(p.330-340)。〈ともにある〉視点の語りという「近代的叙法」が支配的になる趨勢は鮮やかに描き出されている。

そ の最後で、「バーン=ジョーンズやビアズリーらが見せた新しい動きは「物語る絵」としての挿絵の概念そのものが変化したことを示している」(p.360) とあるが、この変化とは具体的にはどのような「叙法」への変化なのか? ブルトンの『ナジャ』などやゼーバルトの作品など、小説に写真を挿入する手法はこ の延長線上に考察可能だろうか? そこには小説における叙法の変化もあるのではないか?

第9章における明治期小説のことばにおける叙法の 検討とそれを踏まえたうえでの挿絵の叙法の分析、とくに後者は非常に斬新に感じられた。前半は本書における叙法をめぐる分析枠組みで今までの議論を明快に 整理している。一見すると小さな対象で好事家的なまなざしの対象にしかならないようなこの種の挿絵に対し、劃期的な視点を提示している。第1部以降の重厚 な分析が、あまり読まれることもない小説の、印刷物ではたいていは省略されてしまう挿絵というミクロな対象を通じて実証されるという転換に興奮を覚えた。 これらの挿絵に没入と内省というモチーフがこれほど頻出することに驚かされる。

ただ、p.434の註184(p.505)で著者自ら述べ ているように、半古の挿絵がつけられた小説が必ずしも〈ともにある〉視点の語りを実践していたわけではない。とすると、小説の叙法と挿絵の叙法との作品内 における関係は何だったのか、という疑問が生じる。それぞれが併行して、「近代的叙法」に向かっていたという趨勢は理解できるが、そこには(作品内外にお ける)相互作用があったのだろうか。清方の場合には鏡花作品の熱心な読書という媒介があって両者は内的に結びついていたかもしれないが(p.443)、そ の他の画家の場合にはどうだったのか? 両者は別個の原因から別々に進化したのか?また、バーン=ジョーンズやビアズリーに関連して、小村雪岱の挿絵はど う位置づけられるか?

最後の註214で触れられているように、ことばとイメージをめぐる問題設定はあきらかに「現代の物語る絵の代表的ジャンル」である漫画の叙法に関連している。漫画の叙法は本書の枠組みで分析可能か? それとも別の叙法があるだろうか?

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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