「トポフィリ──夢想の空間」展最終総括──展覧会制作の趣旨 - Blog (Before- & Afterimages)

「トポフィリ──夢想の空間」展最終総括──展覧会制作の趣旨

 トポフィリ展の報告書が本日研究室に提出されたので、そこにわたしが書いた最終総括の抜粋を掲載します。

1. 展覧会制作の趣旨
 本展覧会は大学院授業「表象文化論実験実習」の成果である。この授業の目的・趣旨についてはシラバスに次のように記載した。
1.1. シラバスの内容
講義題目:思想史としての展覧会
授業の目標・概要:昨年度のハラルト・ゼーマン(Harald Szeemann)研究を踏まえ、「思想史としての展覧会/展覧会による思想史」の可能性を探る。夏学期中に何らかのかたちで展示を実現する。実験的な発想を歓迎する。
授 業計画:昨年度のハラルト・ゼーマン(Harald Szeemann)研究について概説し、授業の意図を解説する。テーマや展示方法などに応じて駒場キャンパスで実現可能な展示の企画を立て、受講者全員で 分担して制作を行ない、夏学期末までに展示を完成させ、公開する。
授業の方法:導入は講義。昨年度から継続の受講者がいる場合には、昨年度の成果 などについて発表してもらう。そのうえで受講者各自による企画立案。その後、共同で実現する企画を選定し、あとは企画会議と進行状況のチェックやプレゼン テーションを兼ねた打ち合わせ。参加者の技能にもよるが、それぞれ担当を決める。一定の締め切りまでの展示完成が共通の使命。なお、田中はプロデューサー として全体の進行を見守り、内容の最終的な品質管理は行なうが、現場の指揮はディレクターに委ねる予定。
成績評価方法:それぞれの持ち場で、展示実現のために貢献したかどうかで評価する。
教科書:教科書にあたるものはない。若い感性に期待し、創造性を重視する。ただし、2010年度のハラルト・ゼーマン研究とそれを発展させた授業内容については資料を提供する。
履修上の注意:授業時間外での労働が当然ながら必要である。覚悟して履修すること。受け身の参加は許されない。
その他:展示についてはしかるべき「外部評価」を受ける予定。

 ここに記したように、今学期の授業は昨年度の「表象技術論」を踏まえている。昨年度の授業内容は次の通り。

講義題目:思想史としての展覧会:ハラルト・ゼーマンとそのテーマをめぐって(続および実践編)
授 業の目標・概要:国際的なキュレイターであったハラルト・ゼーマン(Harald Szeemann)によって企画された、ヨーロッパ文化の集団的なオブセッションをテーマにした展覧会(独身者の機械、真理の山、総合芸術作品への志向な ど)を手がかりに、「思想史としての展覧会/展覧会による思想史」の可能性を探る。冬学期はゼーマンの活動を「方法」として、その延長線上に「オブセッ ションの展覧会」を企画したい。
授業計画:ゼーマンの企画した展覧会を思想史の実践として読み解く作業を継続する。そのうえで、思想史としての展覧会を実践すべく、参加者各自がテーマを設定して、ゼーマン流の「オブセッションの展覧会」を企画する。
授業の方法:個別の展覧会は分担して授業中に発表してもらう。参加者自身の「オブセッションの展覧会」も授業中に発表する。

1.2. 授業の背景
  このように当初の目論見としては、冬学期における参加者の「オブセッションの展覧会」の実現として今学期の実習があるという位置づけであった。しかしなが ら、年度をまたいだことにより、参加者の顔ぶれが大きく変化し、修士1年生の参加者が多くなった結果として、また、3月11日の大震災もきっかけとして、 昨年度からのコンセプトの継続は難しくなった。その点の詳細については報告書の制作過程記録に譲る。

 ここで触れておきたいのは、「思想 史としての展覧会」という構想それ自体についてである。「展覧会」という名称は用いているものの、基本的な関心はキュレーションにではなく、むしろ「思想 史」の部分にあった。「思想史としての展覧会」とは、人文知のプレゼンテーションにおけるあらたな技法の開発を意図した表現である。なるほど、ゼーマンは キュレイターであったが、ヨーロッパ文化の集団的なオブセッションをテーマにした一連の展覧会企画においてはむしろ、美術作品の枠にとらわれない空間構成 によって、独自な思想史的実践を行なったのだと言える。昨年度の授業で取り組んだのはそうした実践の意義や手法の解明であり、さらにその方法をわれわれ自 身が活用する可能性の模索であった。

 これは論文を書くという通常の表現手段以外のメディアを使って、いかに人文知を効果的に伝達できる か、という実践的な関心から来ている。そのためのメディアは展覧会ではなく、例えば映像でもよい。ただし、それは「作品」としての映像ではなく、人文知の あらたな表現技法としての映像の利用である。それと同じような意味で、展覧会もここでは単なる手段であり、美術館における展覧会を範型とするようなもので はない。むしろ、単純に「空間構成」と言ったほうが良かったかもしれぬ。

 グローバルな知的市場に向けてヘゲモニー言語で発信することも 大事だろうが、所詮はグローバルに「閉じた」言説生産のコミュニティのみに安住するのが表象文化論らしい知の発信方法ではあるまい。人文知の表現方法はい くらでも「発明」できるはずだ。ハードな情報技術やソフトウェアのプログラミングができなくとも、たとえばゼーマンのような先達の方法を継承して発展させ ることで、そうした発明を試みることは可能である。わたし個人としては、こうした発想をむしろ思想史や思想を専門とする学生にこそ共有してもらいたいと願 う。

1.3. 目標設定に関する問題点
 さて、しかしながら実際には、昨年度冬学期の成果として、今学期に実現を目指しうるよう な展覧会企画をまとめることはかなわなかった。ゼーマン自身のコンセプトに依拠した「オブセッションの展覧会」という課題設定が適切ではなかったかもしれ ない。より明確に目標を設定したうえで、今学期につなげるリサーチを冬学期に積み重ねることが必要であっただろう。その点で、2年間(1年半)におよぶ計 画でありながら、時間を有効に活用できなかったという悔いは残る。

 これはまた、授業参加者が大幅に入れ替わることを想定していなかった 誤算の結果でもあった。いや、その点は措くとしても、授業担当者であるわたし自身のサバティカルという個人的事情がなければ、夏学期をリサーチにあてて、 秋か冬に展覧会を実現というスケジュールも考えられたはずである。夏学期中に展覧会を開催するという目標設定は、常識的に考えれば強引であっただろう。

  しかし、そのような目標を設けたうえでアウトプットを求めてみたい、という思惑もあった。これはアウトプット重視型の授業であり、準備不足や資金不足、経 験不足などはすべて織り込み済みで、無理とも思える注文をして何が出てくるかを試す機会だった、と開き直ってもよい。そして「何か」が出てくることだけに は確信をもっていた。その点は表象文化論の学生たちに対する信頼があった。わたしがこの展覧会に関して何かなしえたことがあるとしたら、細々した管理者的 な事務作業を除けば、「アウトプットを要求した」というただ一点につきるかもしれない。

 もちろん、本来であれば教師が模範を示して学生 に経験を積ませ、そのうえで展覧会を企画・実施させるべきであろう。だが、時には学生に大きな裁量権を与えて、その発想や企画力、実現の技能を測る機会も 必要ではないか。これは誰もオーソドックスな方法などもたぬ「実験」であった。この試行錯誤が今回は必要であったと思う。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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