「トポフィリ──夢想の空間」展最終総括──展示の評価と学生へのメッセージ - Blog (Before- & Afterimages)

「トポフィリ──夢想の空間」展最終総括──展示の評価と学生へのメッセージ

展示の評価
 ここは担当教員という監督者の側の担当事項を主に書く場であるが、展示空間・展示物についての総合的な評価を記しておきたい。
 バシュラールの『空間の詩学』をコアにするという展示計画案については、それまでの試行錯誤を経て、ようやく実現可能な提案にいたっ た、という印象をまずもった。しかし、それに直ちに続いて、大震災後に『空間の詩学』をテーマとすることへの違和感も浮かばなかったわけではない。つま り、無邪気に「幸福な空間」など語り得ないのではないか、という危惧である。もちろん、バシュラール自身にも「空間の危機」が感知されていなかったわけで はなく、その点についてはカタログに寄せた拙文でも触れた。いずれにしても、展示にあたって求めたのは、今なぜ『空間の詩学』か、今「幸福な空間」を展示 することの意味は何か、という問題点の意識化である。

 メンバーからの経緯説明にもあるように、かなり限られた時間内でこうした点をめぐ る思考が十分に煮詰められたとは言えない。わたし自身もそれを過度に要求はしなかった。展示が『空間の詩学』の字義通りの翻案になっている部分も多かろ う。ある種の少女趣味的なナイーヴさが否めない側面もあるように思う。造形作家の作品の孕む強度が、むしろ齟齬を来たしている場合もないではない。

  時計台という場所以外での展示ならば、こうした欠点は無残な形で露呈したかもしれない。だが、幸いにも、あの空間は展示物のこのような弱点やその脆さをも ある種の均衡のうちに保ち、それがあそこに独特な雰囲気を作り出していたように思う。コンセプトと場所はその意味で、奇跡的と言ってよいような仕方で出 会ったのであり、展示作品の選定や制作はその幸福な出会いの産物である。場所へのこうした依存がひとつの限界であることは認めるが、しかし、このような幸 福が稀にしかないこと、あの場所をこの展示のような空間に作り上げる機会が稀少な僥倖であることもまた事実ではないか。

 造形作家の作品 はただそれだけで「場」を作る強度をもっている。展覧会とはそれぞれのオブジェとそれが作り出す場を組み合わせて、ひとつの統一体を仮構する営みであろ う。そうした常識的な展覧会のあり方からすれば、このトポフィリ展は中途半端とも、内部で分裂したものとも見えるかもしれない。造形作家の作品と制作グ ループ自作のオブジェとの質的レベルの違いは歴然としている。『空間の詩学』を下敷きにしているとはいえ、ただそれだけで、作品としての完成度も質も異な るこれらの事物群を統合するコンセプトたりうるわけではない。

 わたし自身の内部にも矛盾した心情があることを否定できない。この展覧会 が(学生にしては)細部までよく作り込まれた産物であることを評価する声に対して、なるほど美術館で研修を受けたメンバーの存在がこのレベルでの展示の実 現を可能にしたことを高く評価したい気持ちがある一方で、しかし、そのような細部での手際の良さによって回避された「破綻」こそが「展示」されるべきでは なかったか、と無理難題を思う。だが逆に、コンセプトの甘さや展示物のまとまりのなさをめぐっては、これが単なる「展覧会」を目指したものではないという 点をあえて強弁したい気持ちもある。

 最終局面でコメントをした際には、「何とか他人に見せられるレベルにしなければ」という思いから、 細部の雑な造りをできる限り改善することを求めたものの、本来はそこに目標が設定されるべき試みではなかったはずである。そして、自分にとってあの展示空 間がもっていた意味は、そんな「出来映えの無難さ」にあったとは思えない。無難に完成しているにもかかわらず抱えていた「脆さ」「儚さ」のようなものこそ が重要だった。そんな束の間の「脆さ」「儚さ」にこそ、「幸福」に似たものを感じていたのである。

 「展覧会」としては批判されてしかる べきだろう。しかし、これはそもそもいわゆる「展覧会」を制作する技術を学ぶ場ではなかった。そしてまた、人文知のプレゼンテーション技法として展覧会形 式を利用するという、本来の授業の目的からも結果的には逸れてしまった。その点からすると、望んでいた成果ではないのだが、しかし、あえて言えば、これに よってまさに「実験」としては成功したのではないだろうか、およそ予想もしなかった空間をそこに生みだすことができたのだから。

 強い 「破綻」ではなかった。しかし、自作オブジェの質といったものとは別に、ある根源的な次元で、あの部屋に集められた事物たちは深く「壊れて」いた。レトロ スペクティヴな記憶の効果だろうか。だが、わたしにはあのいずれもが今は、断片化した「壊れ物」にしか思えないのだ。それはあの空間内にあったときに彼ら が形作っていた、ぎりぎりの均衡に由来するのだろう。その場を欠いた今、いずれもが皆、「片割れ」であり、壊れ物である。造形作家の作品とてそうなのだ。 個別の作品の強度や完成度はもはや問題ではない。そのオブジェたちは、自己主張することによってではなく、あの場において、いかに単独の存在ではなくなっ てゆくかという「崩壊」を通してこそ、空間のイメージの一部へと変貌していたからである。──片割れ同士が引かれ合う力、つまり、エロスが、あの空間には 微かに宿っていたように思う。少なくともわたしの裡には、記憶のなかで美化されただけではない、そんな印象が永く残り続けている。

 『空 間の詩学』の単なる解説でも、模擬的な展覧会でもない、何か特殊な場が、そこには作り出されていた。それは制作グループが時計台の空間と対話するなかで、 おのずから生成した産物である。『空間の詩学』と時計台、そして、彼女たち自身の想像力とが相互作用しあって生みだされた展示は、だから、コンセプトとし ては先行していない何かを、「発見」する過程の賜物だったはずだ。それは彼女たち自身にも、われわれにも意識化できていない何かである。ナイーヴにも感じ られる表現も含め、むしろ本能的にそこで選び取られたものこそが、このブリコラージュめいた空間の形成を通して、今という時代の集団的な無意識を反映した ように思われる。それは決して声高に語りはしない。だが、ささやいている。この夢想家の部屋は、内向的で閉じた、保護された空間に見えるかもしれないが、 それ自体が脆く崩れるかもしれぬことをあらかじめ自分自身で知っている。この崩壊の予感ゆえに、「幸福な空間」への切実な希求がリアリティをもって来場者 に受け入れられたのではないか、と今にして思う。


学生へのメッセージ
 この制作過程を通して、展覧会実現のための技術や 公的な催しを主催するにあたっての手続きについて学んだことも多かっただろう。だが、制作を担当した学生諸君に改めて考えてほしいのはむしろ、その過程で 生まれた、予想もしなかった発想や、思わずできてしまった産物についてである。細心の注意をもって計算通りに実現できたことなどは、良くも悪くも、現在の あなたたちの能力に応じた等身大の成果でしかない。それに対して、実現可能とはまったく思ってもいなかったことがここでは生じていなかったか。もし生じて いたとすれば──わたしはそう信じる──、それは自分たち自身の作り出した産物ではなく、もっと大きな力によって──僥倖として──もたらされた何かなの だ。真の出来事はそこにある。その出来事の意味、それが生じるメカニズムの解明こそは、あなたたちに事後的に課された宿題である。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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