Blog (Before- & Afterimages): 2011年12月アーカイブ

2011年12月アーカイブ

『職業としてのディレッタンティズム』

ベルリン文学・文化研究センターのシンポジウムで御用達のようにして本を売っていた出版社KADMOSのラインナップから、テーマが気になったので買った1冊、『職業としてのディレッタント』(ドイツ語原書)。
「ややアメリカ的な問い」という副題がついている。2010年6月8日にオスナブリュック大学で行なわれた講演の記録。

グンブレヒト氏は2007年に慶應大学で「大学の人文学に未来はあるか?」という講演をしており、記録が公開されている(PDF)。現代ドイツという文脈を離れた人文学の趨勢については、二つの講演は重なる部分が多い。
『UP』12月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第26回です。
書誌情報は
田中純「鳥人間の影──ジルベール・クラヴェル『自殺協会』」、『UP』470号(2011年12月号)、東京大学出版会、2011年、59〜65頁。

『自殺協会』では、古代エジプトの霊魂観を背景とするこうしたアルカイックなシンボリズム、中世ヨーロッパの「死の舞踏」の虚無的なグロテスク、そして、この協会が位置する建物のエレベーターや開頭手術に使われる歯車装置といった機械のモダニズムなどが奇妙なかたちで融合している。現代的な合理性が古代的な想像力によって幻想的に、しかし極度に乾いた筆致で歪曲された『自殺協会』の世界には、カフカが『審判』で描き出した裁判所の官僚機構や『流刑地にて』の処刑機械を思い起こさせるものがある。自殺協会のシステムそのものが、ひとつの「独身者の機械」(ミシェル・カルージュ)をなしている、と言ってもよい。そして、クラヴェルはこの機械を、死を変容させることで生き延びるためにこそ必要とした。(...中略...)

このように『自殺協会』においては、古代エジプトの死生観をはじめとする神秘主義的な形而上学と世界大戦を風刺したアイロニカルな舞台設定、シュルレアリスムを先取りする幻想性とカフカを思わせる謎めいた寓話性、イタリア語の背後にドイツ語を潜ませた多重言語による、非常に古風でありながら前衛的な文体、そして、デペロによる挿絵や口絵の機械人形たちが跋扈する悪夢のような異世界のヴィジョンといった種々様々な要素が相乗的な効果を上げている。この「独身者の機械」は、イタリア語への翻訳を通じて多声化するとともに、新たな「技師」デペロの参加によって、テクストに従属しない視覚的イメージという強力なダイナモを備えることになったのである。

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Lessons of the Masters

高田康成氏による邦訳を読む。こなれた達意の訳。古代を中心に論じた第一章がとくに興味深い。刺激的だったのは、大学で知を商売にしているわれわれはソフィストの末裔ではないか、という趣旨の指摘だ。テクスト分析や引用といった手法のような体系的教育の習慣を始めたのはソフィストだった。知に対する対価というかたちで報酬を得たのも彼らである。

まさにソフィストの時代以来、哲学の大半は、大学に類する組織において、公の専門職の資格をもった人々によって「牛耳られて」おり、そしてこの哲学という仕事にたずさわる者が給料を期待し、また実際受け取ってしまっているために、われわれはこの職業に内在する興味深い問題[真理や知に対する謝礼をめぐる問題]を見過ごしてしまっている。

こうした組織に対する反抗者がショーペンハウアー、ニーチェであり、ウィトゲンシュタインもこの状況を胡散臭いものと見なし、スピノザも距離を置いた。「真の師は、給与は雀の涙ながら、その精神性において托鉢修道僧に似るものとなる。(...中略...)さらに現実に即して言えば、ものを考え問いを発することを仕事とする教師は、天職とは直接的に関係のないしかたで、日々の生計を立てることになる。靴職人だったベーメ、レンズを磨いたスピノザ、困窮にあえいだパース、事務員だったカフカやウォレス・スティーヴンズ、作家だったサルトル・・・。

ソクラテスの教育はいわゆる教育の拒否であったという指摘。なぜなら「無知の知」へと対話者を導くのだから。それはウィトゲンシュタインにも通じる。彼らの「意図を理解した者は誰でも独習者になるのだ」。人の心のバランスを乱してやまず、理解したと思った瞬間に、その理解を砕くような「神話」や「喩え話」の比喩構造。

注目すべき一節──「地獄という名の幼稚園──幼児性とは地獄落ちの常態に等しい」(70頁)。とするならば、インファンスは地獄に堕ちている。パウル・クレーの《幼稚園=地獄の天使》。

ダンテとウェルギリウス、ファウスト博士をめぐる問題圏などにいたるまでの論述には緊張感を感じるのだが、それ以降(第三章後半のフッサールとハイデガーの師弟関係以降)はやや足早になってしまう。古今東西にわたる途轍もない教養がうかがわれることは確かだし、今日的状況への目配りもあって触発はされるのだが。講演を元にしていることに由来し、また、優れた翻訳の賜物でもある、淀みなく流麗な語り口そのものが、結果的には自分にとっての壁になる。スタイナー自身のこの「教え」はどのような「師」から継承され、どんな「弟子」に伝えられようとしているのかが見えない。それともこれは所詮、師弟関係とは関わりのない、顕教的な表向きの言説なのだろうか。

密儀(密教)と顕儀(顕教)の区別、および、前者は師から弟子へと口伝でしか伝えられないといった事態について、本書では何度か言及される。スタイナーの論述が旋回する核心となる、エロスの問題もまたそこに関わっている。それゆえ、この枠組み内部での口伝の重要性は疑いようもないが、しかし、師の教えがテクストというかたちで漂流し、まったく予想もしなかったところに弟子(私淑する者)を見出す可能性はつねに残されるだろう。「独学者」の存在がここに浮上してくる。

著者も触れているように、劃期的な発見はむしろ、師弟関係の外にいるディレッタントやアマチュアによってなされることが多い。創造的なひらめきという「狂気(マニア)」は教えられるものではない。師にできるのは、その直前まで弟子を導くこと──「無知の知」に直面させること──にとどまるだろう。

本書を読んで最後に想起したのは、『日本浪曼派批判序説』増補版「あとがき」(未來社、1965)で、ジョルジュ・ソレルの言葉「私は、私自身の教育のために役立ったノートを、若干の人々に提示する一人の autodidacte である」を引いて自分自身をも「autodidacte」、すなわち独学者と規定した橋川文三だった。鶴見俊輔はこう証言している。

あるときなんか、丸山さんの自宅を訪ねたら私の先客に橋川文三がいたね。そのとき丸山さんは、こういうふうに言うんだ。「これは橋川君。評論家だ」って。彼は「自分の弟子だ」とかは、けっして言わないんだ。──鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの──鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004)
ここに師弟関係はなかったと考えるべきなのだろうか。それとも双方の側からする別離があったと考えるべきなのだろうか。

ソフィストの末裔であることに甘んじるのでなければ、どんな場所からもアクセス可能な、知識の公然たる技術的世俗化が果てしなく進行しつつある状況下だからこそ、どのような形態の密儀が、隠者としての托鉢修道僧の住み処が、独学者の共同体が、今この時点で可能だろうか。
nachDenken. Internationale Wirkungsgeschichte der deutschsprachigen Geisteswissenschaften und ihrer Sprache

これもベルリン文学・文化研究センターのシンポジウム。3日間の日程だが、今日は行かないので、以下が備忘のためのメモ。非常に長文です。

都市を占う

高梨豊さんの写真集に解説を書きました。
書誌情報は
田中純「都市を占う」、高梨豊『IN'』、新宿書房、2011年、138〜141頁。
Jun Tanaka, Fortune-telling for Urban Cities. In: Yutaka Takanashi, IN'. Tokyo: Shinjuku Shobo, 2011, pp.142-144.

Internationaler Workshop: Neue Perspektiven der Warburg-Forschung
「ベルリン文学・文化研究センター(Zentrum für Literatur- und Kulturforschung Berlin)」主催のワークショップ。2011年11月25〜26日。
中心になっているMartin Treml氏は所長のSigrid Weigel女史とともにズーアカンプ社から一巻本のヴァールブルク著作アンソロジーを編纂・刊行している。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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