国際ワークショップ「ヴァールブルク研究の新しい展望」 - Blog (Before- & Afterimages)

国際ワークショップ「ヴァールブルク研究の新しい展望」

Internationaler Workshop: Neue Perspektiven der Warburg-Forschung
「ベルリン文学・文化研究センター(Zentrum für Literatur- und Kulturforschung Berlin)」主催のワークショップ。2011年11月25〜26日。
中心になっているMartin Treml氏は所長のSigrid Weigel女史とともにズーアカンプ社から一巻本のヴァールブルク著作アンソロジーを編纂・刊行している。
以下、備忘のためのメモとして。

11月25日
Treml氏はヴァールブルク研究における「文献学的転回」をメルクマールとして挙げていた。その言葉通り、ロンドンのヴァールブルク研究所にあるアーカイヴ資料の文献学的研究が中心。英語を基本言語とする会議。

Andrea Pinotti (Mailand): "Stilbildende Macht". Aby Warburg and the Einfühlung-theories
イタリアでヴァールブルクほか、ドイツ美学の研究を精力的に発表している研究者。「感情移入」の概念史とヴァールブルクにおける用法の追跡。
感情移入はそもそも自他の区別を前提にしているので、ヴァールブルクの言う「思考空間」といった距離に関連する。しかし、象徴やイメージの受容においては、それが無になる可能性もあるだろう。

Sigrid Weigel (ZfL): Studying, deferral, return. Warburg reads Darwin
ダー ウィンの著作を1888年に購入していながら、ヴァールブルクがそれを熟読したのは1924年だったことが書物への書き込みからわかるという。回顧的な発 見(フロイト的なスキーム)。「ムネモシュネ」の序文などで語られる理論は明らかに普遍的文化史、文化理論を自然科学をモデルに志向しているという主張 (自然科学の圧倒的な成果に直面した、1900年前後の人文学の支配的傾向)。印象的なのはそのときに「アトラス(のパネル)そのものは違う」とその都度 付け加えていたこと。ズーアカンプの一巻本解説でも強調されていたが、ヴァールブルクは物理学の「最小作用の原理」の発想に依拠していたらしい。

文献学(すなわち言語)に依拠するミクロロジーは理論へのヴァールブルクの(ほとんど生涯にわたる)固着を見出す。しかし、「アトラスは違う」とすれば、イメージの運動はどう語ることができるのか。

ディディ=ユベルマン氏がそこに触れてコメントし、ヴァールブルクのボッティチェリ論文を支配している液状性(水や風の流動性?)のイメージを指摘していた(要するにベンヤミン的「根源」)。ヴァイゲル女史は「その点は自分の印象はまったく違う」と平行線。

Spiros Papapetros (Princeton): Schmuck "als Umfangsbestimmung". Warburg, Semper, and cosmic adornment
ヴァールブルクがゼンパーの装飾論をどう読んだかというアーカイヴ資料に基づく研究。orientationとornamentationの関係をめぐり、ゼンパーが身体装飾に「方向指示」の機能を認めていた点が面白い(方位装飾 Richtungsschmuck)。

Philipp Ekardt (FU Berlin): "To wrap oneself in a silhouette". Warburg on dress and fashion
ヴァールブルクがalla antica, alla franceseといった言葉で形容する服飾装飾についての議論なのだが、要するに?

米国で学位をとって教えている人たちなので話すスピードが早く、制止も入った。消化不良。

20.00 Keynote
Georges Didi-Huberman (EHESS Paris): Au pas leger de la servante. Savoir des images, savoir excentrique
ド イツ語の翻訳が配られた。基本的に今までの彼のヴァールブルク論を要約した内容。ヴァールブルクの細部をギンズブルグ的な事実の証拠としてではなく「症 候」としてとらえるべきことなど。今はヴァールブルクにおける「Wanderung(彷徨)」の概念に注目しているとのこと。
言語と概念をめぐるミクロロジックな話ばかりだったので、大づかみながらヴァールブルクの思考の運動を見せてくれる講演には救われた。朗らかに楽しそうに話していたことも一因か。
質 疑で、ピノッティ氏から「象徴」「症候」「寓意」といった概念の厳密な規定を求められたとき、僕には概念の「使用価値」が問題なので、ここで規定を与えた くはないと答える。そもそも「文献学的転回」という趣旨なのに、さらに朗らかに「僕は文献学には関心がない」と言ってしまう。それはそうだろう。「症候」 という「確定できないもの」に向かっているのだから。「僕は概念のコンスタレーションを作っている」という解説。
「僕は喜び=楽しみとともに ヴァールブルクを使い、精神分析の言説を使い、症候という概念を使う(=これらを使うのは楽しいからだ)」と、堂々と「使用価値」を語ってしまう朗らか さ。「悦ばしき知」か。ニーチェと同様、ヴァールブルクの思考体系も整合的な再構築はできないとも言っていた。会議の趣旨である「新しい展望」が否定され るような発言なのだけれど、これがキーノート。

 

11月26日
10.30-12.00
Thomas Hensel (Siegen): Von der "Animosität des Objekts". Warburgs Mobilia
こ の人だけ、なぜかドイツ語。ヴァールブルクを「イメージの歴史家」ではなく「ものの歴史家」として見るメディア論的視点。彼の仕事机に注目する。1910 年代の「How to systematize your desk work」といった実用書が参照対象。Heiseの回想録には、ヴァールブルクは机の上の事物の配置に異常に神経質になっていたというから、病的な物神崇 拝がそこにはあっただろう。仕事机上の水平の配置を回転させれば「ムネモシュネ」におけるパネル上の図像配置となる。

Julia Voss (Berlin/Frankfurt): The iconography of the series. Warburg's Mnemosyne-Atlas and his method
ダー ウィンの進化論研究における図像利用について著作を書いている人。アカデミズムではなく新聞の文芸欄担当。ダーウィン、ヘッケル、John Evans (The Coins of the Ancient Britonsにおける遺物のシークエンス)、レオ・フロベニウスなどの図版を示して、serialな図像利用がヴァールブルクのムネモシュネと共通し ていること、その背後にある類似性による併置の原理について言及。他方で、ムネモシュネの序文を引いて、人間の「原経験」などといった発想に一種の本質主 義を見て、それが一部の美術史家や脳科学者による芸術の本質主義的な把握に通底していると指摘。そこから、類似性のみに基づいて、例えばカラヴァッジョと 戦争写真を併置するような展覧会の流行を「ムネモシュネ」の悪しき普遍化として批判。要するにムネモシュネの受容に問題あり、と。「美術史家は図像間の関 係の根拠を示すべきだ」というもっともな話。後半の主張こそが言いたいことだったのでは? しかし、この批判の延長線上にはディディ=ユベルマン氏のアト ラス展もあることになるだろう。

質疑では、ディディ=ユベルマン氏がムネモシュネのあるパネルの図像を例に、「類似しているというけれど、 形態が類似しているだけで、時代も地域も意味もまったく違う図像で似てはいない」という、批判になっているのかいないのかよくわからない指摘とそもそも ヴァールブルクのムネモシュネは他の例のように整理されたシリーズにはなっていないという主張。Wedepohl女史からは「ムネモシュネのどこがシリー ズなのかはっきり示してほしい」という厳しい一言。

類似による結合を通じて、美術史研究に一種の「イメージの生気論」が生まれている、とい う観察もあった。イメージを主体と見なす視点の流行(ミッチェルの「イメージの欲望」やブレーデカンプの?Bildakt理論)。物理学における Agencyの理論が参照対象として挙げられた。

ゲーテの影響についての指摘(ピノッティ氏)があったが、ヴァールブルクが「原経験 (Urerlebnis)」と言うときのUr-は文脈に即せば歴史的起源の意味合い。重要だったのは、情念定型において、例えばUr-Ninfaはいな い、というヴァイゲル女史の指摘。それはオリジナルに対するコピーではなく、無数の差異の系列というわけだ──「これはニンフではない」。彼女はさらに、 ヴァールブルクの内部における分裂として、系譜学的モデルと分類学的モデルの対立も指摘。ディドロにこの二つの思考様式をめぐる言及あり?

Voss女史が批判するような傾向は去年東京でイブ=アラン・ボワ氏も指摘していた(→この記事参照)。


13.30-15.00
Claudia Wedepohl (Warburg Institute London): "A reaction against the formalist or stylistic approach". Aby Warburg and Bernard Berenson

Herbert Kopp-Oberstebrink (ZfL): Am Schnittpunkt von Kulturwissenschaften und Kulturphilosophie. Aby Warburg und Ernst Cassirer

聞かず。


15.30
Davide Stimilli (Boulder): Warburg on sacrifice
犠牲(Opfer)をめぐるヴァールブルクの執筆プランについて。ムネモシュネのパネル55に用いられた図版の血を流すキリストと背景の異教祭儀のコントラストなど。


Martin Treml (ZfL): Signorelli in Warburg and Freud
フロイトの「シニョレリ」(例の抑圧による忘却の図式にはボッティチェリも登場する)から出発し、1900年代にはシニョレリの流行があったという話(セ ザンヌやベックマンも)。ムネモシュネの途中のパネル写真で「シニョレリ・パネル」が4枚あり、その一枚(パネル27)の写真を示した。ヴァールブルクは オルヴィエトには何度も行っており、シニョレリは非常に重要な存在だった(だから?)。本筋とは別に、アーカイヴ資料をたどると、ヴァールブルクは神々の なかでも「パン」に関心を寄せていたことがわかるという。

質疑では、ハンブルクからロンドンに研究所が移ったことで、ヴァールブルクのキ リスト教化が起こったという指摘(スティミリ氏)。ザクスルの関与を想定。Pagan Sacrifice(ザクスル)よりもPagan Mysteries(エドガー・ウィント)のほうがヴァールブルクには近い。

スティミリ氏はムネモシュネがシリーズだとしても、その順序は確 定的ではないという指摘。いわば、もう一度アトラスを構成することが必要。アトラスはそれ自体がメディアである(Hensel)という見方に対しては、仕 事机と同じく道具でもある(Weigel)という指摘あり。


全体として、ヴァールブルクのアーカイヴ研究の現状に触れ、1990 年代終わりからの激変ぶりを改めて知る。十数年前は思えば長閑なものだった。知的生産活動の面では盛況化して結構なことだけれど、アーカイヴという「遺 産」をめぐって産業化する過程それ自体が孕む問題もあるように思う。ディディ=ユベルマン氏の講演は今までの所論を要約した部分が多かったものの、一貫し て「差異」と「裂け目」をもたらす(この言い方にすでに矛盾があることは承知のうえで)思想家像を提示するものだった。今にして思えば、場と状況を意識し たパフォーマンスもあったかもしれない。ディディ=ユベルマン氏自身はあまりに華麗な雄弁家でありすぎるにしても、「表現」の問題には敏感で(ここで言う 「表現」とは思考が動いている事態であり、同時に、他者の思考を動かすような潜勢力である)、そこに息をつく自由な空間を自分は感じたように思った。文献 学的に発見された、それ自体は価値のある細部が、しかし、量的に増殖するばかりで窒息しそうな濃密な空間で。

ディディ=ユベルマン氏が、 デューラーの《メレンコリアI》をめぐるパノフスキーのイコノロジーによる解釈は「知的になった気にさせてくれます」と言ったことが妙に記憶に残る(その主張の当否はここでは問わない)。「知的になった気にさせる」言説のみにとどまっていていいのか、という問題。 彼としては、人を不安にさせなくていいのか(「症候」にならなくていいのか)、と続けたいところなのだろう。いずれにしても、この点こそが「表現」に関わる。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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