それは美しいのか?──映画『風立ちぬ』の感想 - Blog (Before- & Afterimages)

それは美しいのか?──映画『風立ちぬ』の感想

映画『風立ちぬ』を見る。
言うまでもなく、飛行機は現実から切り離された自由と夢の象徴なのだから、「美しい飛行機を作りたい」という「夢」とは、夢を夢見る夢であり、さらにこれまた見やすいことながら、そして、作者自身がほぼ認めていることとして、飛行機はアニメーションと等価なのだから、自分のそんな夢という欲望を表現することについての宮崎駿の弁明はあまりにあからさまで、今更この映画のあれこれに難癖をつけることは野暮というものに思える。菜穂子もまた、ひたすら「きれいな」存在であることを強調されるばかりなのだが、この周到な自己言及的構造のもとでは、その点に苛立つ気持ちとて、空回りするだけだろう。美しいものだけを見せられ、美しいものを作りたいという願望の純粋さだけを見せつけられて、それはそれで憧れさえ呼び起こすものの、しかし、この映画があまりにそんなおのれの美学を守ることに長けている点に、なんと言うのか、一種の狡猾さを感じてしまう。自分の欲望を垂れ流していながら、全体としては非難を避けられるように巧みに自己防衛している印象。

禁煙学会の意見書はもっともで、時代背景を考えても、主人公と友人のみにあれほどタバコを吸わせなくて良かったはずだが(タバコを吸う人物とその量が極端に偏っているのが不自然)、これもまた宮崎駿自身の欲望が検閲なしに全開になっている証左だろうか。ともあれ、喫煙シーンが多いといった指摘は野暮の極みで、しかし、たとえ野暮であっても誰かが言うべきことであっただろうとは思う。

菜穂子が自分が結核であることをはっきり告げるシーンなど、菜穂子に関わるストーリーの部分で、涙腺を刺激される箇所はいくつもあった。そこには、いつ、どのように死ぬかを決意したうえで、それまでの生をいかに生きるかという、これもまたひとつの「美学」の体現があった。彼女のそうした生は二郎の夢に奉仕していただけのように見えるけれど、しかし、二郎=駿に感じるような狡猾さを彼女にはさほど感じないのは、どれほど自己満足的な美学であろうと、そこには直接的な自分の生と死が賭けられていたからだろうか。現実から切り離された、あまりに純粋な美は、死によってのみ贖われるとでもいったように。

この映画全体でもっとも印象に残った台詞は、突然牛の頭が現われたあとの「牛がいるね」、その後の「でも、牛は好きだ」、ドイツの飛行機工場を訪問した際の「牛がいないね」という、いずれも二郎のものだった。牛がいるかいないかということに気づいてしまい、それを独り言のように口にするところに、二郎の二郎らしさが如実に凝縮されていることは確かで、こんな台詞を何気なくつぶやく二郎はまったく憎めない。浮世離れしていると言ってしまえばそれまでだし、浮世離れとは(妻すら含めて)浮き世の濁りを省みずに空の夢だけを追おうとする残酷さをも意味するのだけれど、その残酷さすら含めて、この3つの台詞をつぶやいた二郎には夢見る資質と権利があったのだと、そんなふうに彼を受け入れられそうに思えた。これもまた監督の老練な術策だろうか。

あとは断片的な疑問と印象だけれど、東京の人混みが描かれるときに、当時の実際の人口密集度と画面から受けるその印象とはどの程度対応しているものなのか、という初歩的な疑問をもった。記録映像から受ける印象(それも平均値ではないだろう)よりも、つねにより密集した状態で表現される傾向があるように思えるから。

ドイツ語がやたらに飛び交うが、あのあたりは説明なしでは理解できない観客が多いのではなかろうか。ドイツの飛行機の質感表現には感心した。飛行機工場でドイツ人警備兵の言う「日本人はすぐ真似をするから見せない」といった型どおりの台詞を聞いて、まったく映画とは関係のない連想ながら、彼らが「われわれの技術」などと呼ぶときの、その「われわれ」とはそもそも誰なのか、という疑問が沸いた。直接の創造者やその継承者たちではない同国人が、同国人だからという理由だけで「われわれ」などと技術や芸術、学問を占有することは本来できないはずだろう。そして、こうした事情は、二郎の設計した産物についてもまた同様である。

というわけで、話は元に戻り、この映画を「喫煙」や「戦争」といった社会的、国家的問題との絡みで批判するのは、見当違いの野暮でしかない。では、粋な批判があるかというと、美しい何か──飛行機、映画、自分の生──を作ろうとした結果の産物が、果たしてほんとうに十分美しいものだったのか、という点に尽きるような気がする。では、そのとき、何をもって、誰が、それを美しいと判定するのか。作り手自身ではあるまい。宮崎駿が「美しい夢」をめぐる自己言及構造によって、あたかもこの映画の「美しさ」を内在的に証明してしまったかのように見せかけているとしたら、その点こそ、わたしがこの映画に感じた狡猾さの正体なのだろう。そして、そんな狡猾さを感じさせている不純さによって、この映画は宮崎駿が望んだようには(望んだほどには)美しくはないと、わたしにはそんなふうに思えた。

付記:今後何かを褒めるときには「風が立っているね」という台詞を使おうと思った。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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