ある一族の系譜 - Blog (Before- & Afterimages)

ある一族の系譜

 祖先をたどって家系を探ることは、歴史の時空に自分自身を位置づけようとする営みと、ひとまずは納得できる。では、無名な人びとの系譜を明らかにしようとする試みには、いったいどんな欲望が働いているのか。彼らの生という点と点とを結びつけることでなされる、「名もなき人びとに捧げられた」「歴史の構築」(ベンヤミン)が描き出す星座は、その配置から何を占わせてくれるのか。──そんなあてのない問いを反芻しながら、ジルベール・クラヴェルの評伝執筆をきっかけとして、「アーシア(アーシア・ソロヴェイチク Asia Soloveicic)」という女性の生の軌跡を追い続けている。帝政ロシアの支配下にあったリトアニアに生まれ、キエフで成長した人物ゆえ、イタリアに亡命する以前の履歴についてはいまだ十分な調査が難しいものの、カプリ島に暮らし始めた1910年前後からの消息はある程度明らかになってきた(東京大学出版会の雑誌『UP』掲載の拙論「夢のなかの赤い旗」「ハデスの吐息」参照)。
 みずからもユダヤ人であるアーシアは第一次世界大戦後に、フェリックス・タンネンバウム(Felix Tannenbaum)という同じユダヤ人の彫刻家と結婚し、彼とのあいだに二女をもうけている。ここではこのタンネンバウムの一族の系譜をスケッチしておきたい。

 フェリックスは1882年6月20日にチューリンゲン地方のゲハウス(Gehaus)という村に生まれている。父はレーヴィ・タンネンバウム(Levi Tannenbaum 1835年12月21日生〜1899年8月13日没)、母はテレーゼ(Therese)、旧姓バウムガルト(Baumgart)である。この母は1854年7月8日にゲハウスで生まれ、1943年5月17日にテレージエンシュタットのユダヤ人ゲットーで亡くなったホロコーストの犠牲者である。チェコのホロコースト・データベース(holocaust.cz)によれば、テレーゼは1943年4月19日にベルリンからテレージエンシュタットに移送されている。90歳近い高齢であったとはいえ、移送から一ヶ月も経たないうちに命を落としたことになる。同じ列車で移送された101名のうち、生き延びた者は16名だけであったという。
 この一家にはほかに、フェリックスの兄のラーヌス(Lanus 1880年4月29日〜1980年)、弟のジークムント(Siegmund 1884年3月20日〜?)、マックス(Max 1885年10月21日〜?)、そして、妹のレナーテ(Renate 1889年7月15日〜?)がいた。ヤド・ヴァシェムのThe Central Database of Shoah Victims' Namesによれば、レナーテは結婚してレナーテ・ハーン(Hahn)となり、エアフルトで暮らしたのち、ポーランドのマイダネク強制収容所(正式にはルブリン強制収容所)において52歳で殺されたとされている。別のデータベース(Gedenkbuch - Opfer der Verfolgung der Juden unter der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft in Deutschland 1933-1945)では、彼女は1942年5月10日にエアフルトからヴァイマール、ライプツィヒを経て、ポーランドのベウジツェ(Bełżyce)のゲットーに移送されている。しかし、この町のゲットーはその直後の5月22日に解体されており、住民たちは強制・絶滅収容所に送られているから、レナーテもまた、この段階でルブリン強制収容所へと移されたのであろう。
 ジークムントおよびマックスの消息は明らかではない。一方、ラーヌスはロストック大学で1914年に法学の博士号を取得したのち、ミュンヘン大学で医学を学び(1915年の学生名簿にその名が見える)、1922年に医師免許を得て、1923年年末からエアフルトで開業している(Thomas Grieser, Jüdische Ärzte in Thüringen während des Nationalsozialismus 1933 - 1945. Dissertation. Friedrich-Schiller-Universität Jena, 2003, S.119-120.)。1933年6月28日、この年の1月に政権を掌握したナチの突撃隊(SA)はエアフルトで、共産党員やユダヤ人に対する「特別尋問(Sondervernehmung)」と称する拷問を行なった(以下の記述は次の論文に拠る。Sascha Münzel, Willkür und Gewaltexzess: Die ››Sondervernehmungen‹‹ der Erfurter SA 1933. In: Mitteilungen des Vereins für die Geschichte und Altertumskunde von Erfurt. 72. Heft, Neue Folge - Heft 19, 2011, S.167-169.)。身柄を拘束された逮捕者たちは警察の牢獄から、尋問の場所となった料理屋「花の谷亭(Zum Blumenthal)」の敷地までの数キロの道を、裸の腕を交差させられたうえで重いタイプライターを交互に運ばされ、サスペンダーを外されて脱げそうになるズボンに足を取られながら、侮辱の言葉と暴行を受けつつ、延々と歩かされたという。ラーヌスは6人の逮捕者たちのうちのひとりだった。
 彼らは料理屋の芝地をぐるりと回って走りながら、反ユダヤ主義的な歌を歌うことを強制された。その間に監視人たちは彼らの裸の上半身を、ベルトに付いた鉄のバックル、あるいは硬いゴム製の棍棒や鉄の棒で殴った。逮捕者たちはさらに、犬の調教用のハードルを飛び越えねばならず、その際に「ユダ公くたばれ(Juda verrecke)」と叫ぶことを強いられた。監視人たちはここでも彼らを打ち据えた。こうした虐待によって命を落とす逮捕者も出るなか、生き残った者は最後に、監視人たちから丁重な扱いを受けた旨の証明書を書かされた。ラーヌスはこの拷問のさなか、ハードルの跳躍で睾丸をしたたか打撲したうえ、突撃隊員数人によって水の入った樽のなかに幾度も沈められたという。
 ラーヌスはこのような時代を生き延びた。彼は1938年までエアフルトにとどまり、のちに米国に移住して、そこで没したことがわかっている。一方、1910年前後からイタリアに移り住んでいたフェリックスは、彫刻家としてよりも画商や修復家として生計を立てていたらしい。1930年代半ばには、ドイツの建築家コンラート・ヴァックスマン(Konrad Wachsmann)の設計により、ローマの市街に自邸を、カプリ島には別荘を建てているから、かなり裕福な暮らしを送っていたものと思われる。しかし、アーシアの次女ミーア(Mya)さんの回想によれば、戦時中はフェリックスの一家も隠れ住むように生活することを余儀なくされ、ミーアさんは音楽の教育も兼ねて英国に送られている。
 フェリックスの母方の従兄弟には哲学者デヴィッド・バウムガルト(David Baumgardt)がいる。1890年エアフルト生まれのバウムガルトはベルリンで哲学を講じ、1935年には英国に亡命、さらに1939年には米国に移住して、国会図書館の学術顧問やコロンビア大学の客員教授を務めた。1945年1月8日付で書かれた、ニューヨーク在住のフェルディナンド・タンネンバウム(Ferdinand Tannenbaum)宛の手紙でバウムガルトは、まだ戦争直後で直接連絡の取りにくかったフェリックスの消息を、ローマ在住の知り合いを通して照会した結果を伝えている(David Baumgardt Collection 1907-1971所収)。フェリックスの一家とバウムガルト夫妻は非常に親密な間柄だったらしい。米軍の軍人がタンネンバウム家の長女エレーナ(Elena)のメモの内容として記しているところによると(当時、そうしたメモを直接送ることは許されなかった)、幸いにもドイツ軍による占領を生き延び自由を得た一家は、彼女の母、すなわちアーシア以外は良好な健康状態だったという。アーシアは悪性貧血を病んでいた。エレーナは近代ロシア文学の翻訳を引き受け、ミーアは著名な指揮者とコンサートを催していた。しかし、こうした仕事をもつとはいえ、高くつく生活費をまかなうために、彼らは自分たちの所有する美術品を売らなければならなかった。エレーナは、従兄弟であるフェルディナンド・タンネンバウムの手で、アメリカにある自分たちの財産をイタリアに送ってもらえないかと思案している。この財産はエレーナの祖母[テレーゼ]名義だが、ドイツ人たちの手で祖母とレニー(Reny[レナーテを指すものだろう])が「移送された」(つまり「殺された」)今となっては、自分たちがその分を所有できるのではないか、とエレーナは考えたのである。
 フェリックスはローマで、マニエリスム論によって知られるグスタフ・ルネ・ホッケと友人になっている。ミーアさんの話によれば、クルツィオ・マラパルテもローマの屋敷を訪れたことがあるという(ミーアさんはマラパルテが「表面的な生活を送っていた」と語っていた)。拙論「ハデスの吐息」に書いたように、アーシアは精神を病んだのち、1949年12月に59歳で亡くなっている。一方、フェリックスが72歳で没したのは1954年10月13日だった。10月14日付の地元紙『ローマ・クロニクル(Cronaca di Roma)』は次のように伝えている──

ドイツ人彫刻家、衝突死
72歳のドイツ人老彫刻家ファリックス・タンネンバウム氏(マルコ・ペポーリ5番地在住)が、オートバイとの衝突事故の結果、昨日の早朝、サン・ジャコモ病院で亡くなった。一昨日の晩、およそ19時頃、フォーリ・インペリアーリ通りに向かうオートバイとの衝突の犠牲となったものである。
彫刻家が衝突したオートバイを運転していたのは39歳の配管工ヴィンチェンツォ・マストロチッコ(エンリコ・トーティ通り3番地在住)である。

 20世紀初頭のキエフにおいて10代の若さで革命運動の疑いで投獄され、一年間の獄中生活を送り、イタリアに逃れたのちにもユダヤ人迫害を経験したアーシアは、最晩年に肉体の病とともに精神の平衡をも失って没した。それとはかたちこそ異なるとはいえ、フェリックスにもまた安らかな最期が用意されていなかったことを、この記事は教えている。彼の母が長い生涯の末に異国への移動を強制され、ゲットーでその生を終えねばならなかった運命もそこに重なる。
 アーシアの一族ソロヴェイチク家もまた、ホロコーストを逃れるべく、南アフリカなどへの移住を強いられた。その子孫の著名ジャーナリスト、ロジャー・コーエン氏(Roger Cohen)は、この一族の歴史を執筆中で、今年の後半には刊行される予定であるという。コーエン氏は、ソロヴェイチク家の故郷ジャガーレ(Žagarė)を2012年に訪れ、アーシアの実家が昔のままに残っている姿を確認した、とミーアさんは話してくれた。
 1941年6月にこの一帯を占領したナチ・ドイツは、この町と近隣のユダヤ人たちをゲットーに隔離した。そして、同年の10月2日、親衛隊(SS)およびリトアニア人のナチ協力者たちは、ユダヤ人たちを中央広場に集めたのち、森のなかへ連れてゆき、そこで虐殺した。親衛隊大佐カール・イェーガー(Karl Jäger)は2236人を殺害したと報告している。だが、のちにソヴィエト軍が掘り起こして発見した遺体は2402体(男性530体、女性1223体、子供625体、乳児24体)にのぼったという(Roger Cohen, The Last Jew in Zagareに拠る)。
 クラヴェルの手紙や日記に登場する謎の恋人「アーシア」の名は、か細い糸を手繰り寄せるような探索の果て、こうして現代史の最も暗い闇へと通じていた。それは迷宮からの脱出を可能にするアリアドネの糸ではなく、むしろ、迷宮の奥へと誘う糸なのだろう。なぜ自分がそれを手にしてしまったのかは、いまはもうわからない。この探索を鳥瞰的に位置づけることはまだしたくない。ただ、細い糸の先に明滅する何かを頼りに、分岐しながら拡がる冥い道のひとつひとつを手探りでたどってゆくしかないだろう。地の底に星座を幻視するようにして、先の見えない探索を続けたいと思う。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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