サスペンス映画の/という希望(三浦哲哉さんの博士論文講評原稿) - Blog (Before- & Afterimages)

サスペンス映画の/という希望(三浦哲哉さんの博士論文講評原稿)

2011年6月4日に行なわれた三浦哲哉氏の博士号(学術)学位請求論文『サスペンス映画論』の審査会で田中が読み上げた講評を公開します。三浦氏の博士論文の内容要旨および審査要旨は次のURLで公開されています。
なお、この博士論文は審査委員会における意見も踏まえて書き直され、『サスペンス映画史』(みすず書房、2012年)として刊行されています。

※2011年の審査講評を今公開する理由について:
『UP』に掲載された拙文「『明るい部屋』のサスペンス」は三浦氏の著書『サスペンス映画史』を参照している。今回のこのバルト論は実はもっとサスペンス映画よりの話にして、イーストウッドの『チェンジリング』ほかを取り上げたうえで、「失われた子供」というトポスを論じるつもりだった。それは「『明るい部屋』のサスペンス」に先立つ『UP』連載のゼーバルト論(「迷い子の写真たち」)につながるはずのものだった。
しかしながら、バルト論とのあいだに十分に満足できる接続ができず、『チェンジリング』への言及はいったん取りやめた。その際に読み直したこの講評を、今回何らかのかたちで公開することを思いついた。これを三浦氏の著書の書評に書き改めることも試みたのだが、博論と著書ではかなり書き改められた部分があり、単なる書き換えではすみそうになかった。講評は一定程度完成した内容なので、とくに『チェンジリング』周辺の議論をこれから先の展開の礎とするためにも、いったん公開することを決めた。

(以下、PDFと同一内容)

サスペンス映画の/という希望
田中 純

 三浦哲哉氏の『サスペンス映画論』は、「サスペンス映画」の根幹をなす原理を精緻に分析しつつ、その多様性を通史的にたどることによって、このジャンルの歴史的変遷を明確に跡づけた優れた論文である。検討対象をサスペンス映画史において劃期をなす作品に絞り、個々の作品分析はミニマムにとどめながらも──その点は資料として付された図版の少なさにも表われているが─、しかし、三浦氏の論述に不透明さや曖昧さの印象は感じない。これは著者が、分析対象を鋭利に腑分けしつつ、抽象度の高い次元でサスペンス映画の作品構造をそれぞれ簡潔にまとめ、ジャンルの歴史的変化を明快に段階づけているからであろう。文体もおおむね明晰であり、とくに第5章までは説得されながら、大きな疑問を感じることなく読み進むことができた。個々の映画に関して、わたし自身により多くの知識があれば、解釈に異論を唱えるべき点が生じたかもしれないが、本論文をジャンル論と位置づけるかぎりにおいて、著者による個々の作品分析は十分なものであったと思われる。ただし、先ほど留保を付けたように、第6章については、先行する章に比べ、文体がやや散漫な映画批評のようなものになり、ひとつの章としての焦点がぼやけている。この点に関しては、方法論の問題と絡めて、のちほど立ち返ろう。そうした瑕疵を見出すとはいえ、第6章のなかでもクリント・イーストウッドを論じた部分はきわめて説得的であり、その末尾の論述には深い感慨を覚えた。以上が論文全体に関する私見である。

 さて、では方法論の問題に移ろう。著者は113頁でベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における「完璧な作品がひとつのジャンルを創出するとともに廃棄する」という言葉を引用し、サスペンスにおいてそのような作品があるとすれば、それはヒッチコックの『めまい』だろう、と指摘している。なるほど確かにそうだろう。『めまい』以後のヒッチコック映画の「陰惨化」も、それに続くスペクタクル化も、『めまい』によって必然的にもたらされた、一種の「後史」としての帰結と見なすべきだろう。
 ここで問題にしたいのは、このような「完璧な作品」を所有するジャンルである「サスペンス映画」を扱ううえでの方法論である。著者は10頁において「理念」としてのサスペンスについて語っている。このカッコ付きの「理念」という言葉に、わたしは同じくベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』、その「認識批判的序章」における「理念」という言葉を重ね合わせてみたい。ベンヤミンにおいて「理念」とは何であったか。彼はこう述べている。「ある形式もしくはジャンルの極値(エクストレーム)が理念なのであって、この理念がそれ自体として文学史のなかに入ってくることはない。」そして、このような「極端なもの(エクストレーム)」を必要不可欠とするのは芸術哲学である。ベンヤミンはさらに、「文学史的な論述が多様性を裏づけなければならないところにおいて、芸術哲学的な論述は統一性を前提とする」とも言う。すなわち、芸術哲学と文学史とがここでは峻別されており、理念を扱うべきは芸術哲学なのだ。

 三浦氏の論文に立ち返ろう。著者は論文趣旨の冒頭で、この論文の目的を1.サスペンスの自律性、2.歴史的多様性を明らかにすること、と設定している。わたしの理解では、このうちの1は「理念」に関わる。それに対して2はベンヤミンの言う文学史に対応する映画史の対象だろう。すなわち、この二つの目的は、芸術哲学と映画史という二つの方法に対応している。
 両者を追求するという野望なのかもしれぬ。しかし、わたしの判断としては、この論文が成功しているのは、それがサスペンスというジャンルをめぐる芸術哲学=映画哲学として、「理念」を追求している点においてこそ、なのではないか。第5章のヒッチコック論までの論述が安定しているのは、それが多少の揺れはあっても、サスペンスの「理念」の追求という点で一貫していたからであろう。
 その論述が大きな迷いを見せるのが、文字通り「ジャンルを廃棄する」サスペンス映画『めまい』の分析のあとからである。第6章の論述がもつ不明確さや散漫さは、映画史的多様性に過度に配慮したことによるのではないだろうか。少なくとも、第6章で取り上げられている「スペクタクル時代の諸要素」や「ノーランとシャマラン」などは、律儀にサスペンス映画の多様性を記述しようとするあまりの瑣事拘泥にも見えると言ったら言いすぎだろうか。
 このようなたぐいの多様性から帰納的に平均値として定義されるものがサスペンス映画の「理念」ではないはずだ。ベンヤミンであれば、そうした理念は『めまい』のような「極値(エクストレーム)」の「星座(コンステラチオーン)」として与えられる、と言うだろう。これは強引にベンヤミンの方法論を三浦氏に押しつけて言うのではない。このような意味での「星座」を描くことに、本論文はかなりの程度において成功していると考えるからである。

 歴史的変化によってもたらされた多様性という映画史的視座によるのではなく、時代を越えた前史と後史の照応ないし出会いを示す「星座」がこの論文にはある。ひとつは「失われた子供」というモチーフだ。これは『ドリーの冒険』と『チェンジリング』ばかりではなく、『マイノリティ・リポート』の主題でもある。そして、この「誘拐された子供を探すこと」というモチーフには、サスペンス映画をめぐる核心的な何かが宿っているのではないか。
 もうひとつの例は、『マイノリティ・リポート』や『ペイチェック』とキートンの映画を結びつける、「すべてが偶然のようにうまくゆく展開」である。『マイノリティ・リポート』や『ペイチェック』ではプリコグや未来を見せるマシンによる予見のおかげで、あたかもすべてが偶然のようにうまく事が運んだり、無意味に見えるアイテムが次々と主人公を救う。これに対して、キートンの映画では、この論文の50頁にあるように「環境自体がキートンを助けるべく自在に変化する」。
 前者のSFサスペンスにおいてサスペンスの原理は歴史的に変化しているように見えるものの、これらの音を消して、サイレント映画として見れば、彼らの身ぶりはキートンの映画と大差ないのではないか。このことが逆に示すのは、『マイノリティ・リポート』や『ペイチェック』にしても、それがサスペンスたり得ているのは、実は「すべてが偶然だった」という可能性に開かれているからこそなのではないか。「すべては偶然にうまくゆくように見える」ことこそが実は本質的であり、キートン以来変わらぬマトリックスこそがサスペンスの母胎ではないか。

 さて、『めまい』以後に劃期的な「極値(エクストレーム)」となっているのはイーストウッドの映画であり、とくに『チェンジリング』であろう。著者はこの章の末尾である154頁で「この「希望」の一語に、「イーストウッド以後」のサスペンスの可能性もまた胚胎されている」と書いている。以下はこの指摘から出発して、サスペンスの「理念」をめぐる芸術哲学的な問いを投げかけたい。それは「希望」をめぐる問いである。そこで中心をなすテーゼとは、「サスペンスとは希望である。サスペンスとは希望の映画、ないし映画の希望である」というものだ。だが、まず「希望」の概念を再検討しなければならない。
 『チェンジリング』の最後で主人公のクリスティン・コリンズは「確かなものを見つけた」と語る。それは希望であると。だが、希望とは未決定であり宙吊りであるがゆえに与えられるものだろう。逆説的なことに、この確かさは未決定状態の確かさなのである。希望はサスペンドされている。──イーストウッドの映画を論じた一節のこの「希望」という言葉にわたしが強く反応したのは、ちょうど最近、ベンヤミンにおける「希望」についてテクストを書いたからだった(田中純「希望の寓意──「パンドラの匣」と「歴史の天使」」、『UP』464号(2011年6月号)、東京大学出版会、2011年、42〜48頁)。その結論とは、ベンヤミンの歴史哲学が背景としているのは「死者たちの希望」をめぐる思想であり、パウル・クレーの「新しい天使」にもとづく「歴史の天使」のイメージの原型となっているのはルネサンスにおける「希望」の寓意像だったというものだ。詳しいことは省くが、「希望」の寓意像も「歴史の天使」もサスペンドされた身ぶりや強いられた受動性を特徴としている。

 ここでこのような補助線を引いているのは、サスペンス映画をめぐってこの論文が触れている時間性は、過去という取り返しのつかない、結末を知っている出来事をどのように経験するかという歴史記述の問題に関連していると思われるからである。それは例えば35頁で述べられる、グリフィスの映画の二つの時間の相、「滅びることが決定されている時間」と「それをまた現在において生き直す時間」の関係性とそれにともなう「寄る辺なさ」の感情であり、159頁の結論部ではこれが、観客の感じる「憐憫」として総括される。
 だが、なぜそれは「憐憫」と呼ばれなければならないのか。わたしはそれを「希望」と呼びたい。ただし、この場合の希望とは、ベンヤミンがゲーテの『親和力』を論じたテクストの末尾に書いた次の言葉の意味における希望である。すなわち、「ただ希望なき人々のためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。」どういうことか。定められた運命のもとにある作中人物たちを見守るわれわれの心の動きゆえに、彼らのためになくてはならぬと思われる希望がわれわれの胸中に生まれるのである。「希望」を語る『チェンジリング』がリフレクシヴにこの希望を孕んでいるとすれば、クリスティン・コリンズに与えられた希望とは、彼女にとっての希望ではなく、息子にとっての、あるいは殺された子供たちにとっての希望である。『マイノリティ・リポート』にもまた、この希望がなかっただろうか。
 このような希望は容易に宗教的な救済の観念に結びつくから、イーストウッドがクリスティンにそれを拒絶させているのは、希望をサスペンドさせるために不可欠だっただろう。あえて寓意的な読みを続けるとすれば、クリスティンが警察に違う子を押しつけられ、それをわが子と認めるように強制されることは、彼女と息子の過去までもが書き換えられることであり、ベンヤミンによる「歴史哲学テーゼ」の「もし敵が勝利を収めるなら、その敵に対して死者たちさえもが安全ではないであろう」という言葉すら思い起こさせる。
 ヒッチコックも言うとおり、「たかが映画」であろう。歴史哲学と関係づけるのは深読みに過ぎるだろうか。だが、とくにイーストウッドには、彼岸なき場所でいかに希望を確かなものにするかという、ある種の哲学的・思想的な問いがあるように思われてならない。そしてそれがサスペンス映画それ自体の「可能性」ではないか。
 ユーモアとともに希望を──感情移入に換えて、サスペンス映画の「極値(エクストレーム)」の星座が見せるのは、そんな希望の寓意像であるように思われる。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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