ロドルフ・ガシェさんの講演と『思想』のデリダ特集 - Blog (Before- & Afterimages)

ロドルフ・ガシェさんの講演と『思想』のデリダ特集

「脱構築の生き証人のような人」と言われるロドルフ・ガシェさんの講演や『思想』のデリダ特集と、デリダづいていた週の印象記。
25日に駒場でロドルフ・ガシェさんの講演を聴講。原稿の全訳が配付されたこともあり、門外漢でもついてゆけた(と信じたい)。「或る際限なく単数の=奇妙な普遍」という最後の捩れたフレーズへといたる過程に、「風」が確かに吹いたように思った。「思考の迅速さ」(カント)──非物質的な、風のように。 
質疑で「風を哲学はあまり取り上げてこなかった」という指摘があり、むしろ「東洋で論じられてきた」例としてTadashi Ogawa と言われたのは小川侃さんのこととあとで知る。著書に『風の現象学と雰囲気』がある。 
ただ、その後思ったのは、風はどこから吹くのかと。思考の風は破壊的効果を自己発生的に生み出すというのだから、思考そのもののなかから吹くのだろうが、しかし、「風に吹かれる、吹き飛ばされる」という経験の実感としての受動性、あるいは受難、パッション。 ──ハリケーンのように。You are like a hurricane There's calm in your eye. And I'm gettin' blown away ... 破壊的な風──ニーチェはどうだっただろう・・・と考える。ヴァールブルクはニーチェを襲ったものを過去からの「地震」だと言った。そんな地震計としての歴史家。ヴァールブルク自身もまた。 
そして過去からの風──「実際また、かつて在りし人びとの周りに漂っていた空気のそよぎ(Hauch)が、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。」(ベンヤミン「歴史の概念について」) その微風の「かすかなメシア的な力」は、思考の暴風よりも破壊的かもしれない・・・ 。
ガシェさんは脱構築について、「坑道にシャフトを通して鉱石を掘り出してはまた埋めて掘り進める」というイメージを語ったという(宮﨑裕助さんのツイートより)。デリダにパリに来なさいと言われたのは「エレベーターの中だったとはっきり覚えている」とも語ったそうだ。ここからはつい、地中を掘り進める憂鬱質のグノーム(「傴僂の小人」)を連想してしまう・・・
最後に、銘記された命題──「諸々の個別的なものを判断する際に、すべての判断はあたかもそれが最初で最後の判断であるかのように遂行されなければならない」──アーレントの一節を註解して。

27日の午後、5時間に及んだ総長選の投票所で『思想』デリダ特集号を読む。デリダの流れを汲む俊英というマーティン・ヘグルンドの「時間の原物質性」が刺激的(ただしメイヤスー批判のところは飛ばし読み)。生物と無生物とに通底するsurvivalとしての時間の観念。survivalは文脈から「生存」と訳されているが、ほかならぬ「残存」であってみれば、アビ・ヴァールブルクを連想しないわけにはゆかない。抜き書き的に──「時間の原物質性は、こうした痕跡の構造から導き出されるものである。」「物質の崩壊は、生命を賦活する原理や、意識や、精神なしに、時間の推移を記録するのだ。」 「事物は破壊される可能性があるからこそ、(中略)誰か、もしくは何かがそれらに配慮をするのだ。この生命の根源的な破壊可能性こそが(中略)生命を配慮の対象としてくれるのである。」 これもデリダから出発して独自の思想を展開しているカトリーヌ・マラブーの「グラマトロジーと可塑性」ももちろん面白かったのだけれど、そこで顕著な神経生物学への依拠よりは、同位体の「半減期」や「風化」を語ってしまう「時間の原物質性」に魅力を感じる。無生物と生物のあいだの連続性という発想に惹かれるのだ。──いっそ「鉱物(ロック?)になりたい」からか?
デリダの「アメリカ独立宣言」(非常に明解)と、それを論じて日本国憲法にも論及した宮﨑裕助さんの論文からは、蓮實重彦先生の『帝国の陰謀』や北一輝の『日本改造法案大綱』のことなどを連想させられる。 「帝国」樹立にあたってのパフォーマティヴを論じて、「私生児的」な「シニカルな歴史性」に説き及ぶ優雅な『帝国の陰謀』の著者もデリダの議論を熟知していたことだろう。自分の起草した独立宣言が無惨に削られたトマス・ジェファソンに対し、フランクリンが慰めようと語ったという帽子屋のエピソードが抜群に面白い。デリダが触れているし、宮﨑氏もジェファソンの手紙から詳しく引用している(ネット上では http://donttreadonme.blog.jp/archives/913966.html で概要がわかる)。最終的に「ジョン・トンプソン」という帽子屋の名と帽子の絵だけが残された看板の物語──これが「トマス・ジェファソン」と独立宣言に対応する。このマグリット的な一対のイメージと名は、これらの論文読後、謎のようなエンブレムとして記憶に残り続ける。
その他、アクチュアルな緊張感のある座談会で鵜飼哲さんが指摘しているデリダの犬儒派的な側面や脱構築にともなう喜びに近い情動など、虚を衝かれたような発見もあった。映画に関するインタビューでデリダが、大量の映画を見ているのにその記憶がまったく残っていないという自分の「病理学的な一症例」を告白し、「ある恒常的な抑圧が映像の思い出を消去してしまうのです」と語っている点も興味深い。
隅から隅まで、とはいかないが、ほぼ通読して、日本のデリダ研究の厚みや拡がりを知るとともに、デリダから出発して展開されている哲学的営為の新鮮さに触れた。当事者である方々はまだまだ脱構築的実践が足りないと感じているようだけれど、日本のデリダ研究者の層は幅広く厚く、しかも、この思想家に対して非常に真摯だと感じる。デリダの問いに誠実に応答しているその研究姿勢を、何というか、誇りに思う。思想の輸入と言われがちな日本の人文学の核心にあるのは、テクストを原語で正確に真摯に「読むこと」であり、それをその核心において「翻訳」する、実は最も困難な営みであることを、それは示している。 
そして読後、今にいたるまで長く考え続けているのは、知に対する態度の根本的な誠実さと不誠実さについてだった。思想がファッションだった時代はあるけれど、30年近く経ってみて、デリダならデリダを相変わらず意匠として使うような言説は、やはり、終わりにすべきだろう。そして、そのような言説は、現在の研究や思考の水準から見て、決定的に「終わっている」ことを確認したように思った。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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