『ユリイカ』2003年3月号リベスキンド特集に寄せて(再録) - Blog (Before- & Afterimages)

『ユリイカ』2003年3月号リベスキンド特集に寄せて(再録)

忘れていたが思い出したので再録。
評価できる時期のリベスキンドについては今度の本に論文を収めるつもり。
『ユリイカ』リベスキンド特集に寄せて

この特集号のため、多木浩二さんとダニエル・リベスキンドをめぐってお話することができました。リベスキンドをこの雑誌にふさわしい視点から総合的にとらえるための展望は得られる討議内容になっていると思います。多木さんのお話のなかでは、とくに哲学者・建築家グアリーノ・グアリーニに関する研究についての話題が非常に示唆的で、大変刺激を受けました。お会いできて良かったと思います。

一方、特集の内容については、いろいろ興味深い論点が出されている一方(とくに音楽との関係について)、やはりリベスキンドという主題の「典型」性に呪縛されている印象は否定できません。強い自戒を込めて、この閉域を破る必要を感じました。

そうしたなかで、八束はじめさんの「私はダニエル・リベスキンドについて何を書く、あるいは書かないのか?」についてだけは、ひと言感想を述べておきたいと思います。

八束さんの論点は要するに、リベスキンドの否定神学的な建築は、まさにそれが言説を引き寄せる構造をもっているがゆえに、それについて語ることよりも、むしろそれについていかに語らずにすませるかしかない、というものでしょう。

一見したところ奇妙なのは、八束さんが単純に「語らない」ことを選ばずに、「なぜ書かないのか」について書く、という方法をとった点です。その結果として、いかに紙数が限られているとはいえ、このエッセイの主張はわたしには中途半端な、さらには否定的な意味でいかにもリベスキンド的なものに見えました。

八束さんは、ミース・ファン・デル・ローエやリベスキンドの建築には言説を引き寄せる構造があると書いていますが、それを「形の異様さ」とか「還元しようもない」「無」のせいだ、と片づけているのはいかがなものでしょうか。タフーリやアイゼンマンを引き合いに出し、この種の「ヴォイド」の臨界という認識は袋小路に陥った、と指摘するくだりを読むと、建築の実践(および批評)とそれに関する歴史的(人文知的)な分析とを混同しているように思われます。言説を引き寄せる構造がそこにあるのだとしたら、その構造こそを徹底的に分析すればいいことです。さらにここで「言説」と呼ばれているものの多様な実態についても、丁寧に腑分けすべきであることは言うまでもありません。

八束さんは、コールハースのゴシップ的で「形而下的」なミース読解を称揚して、逆に、そこに「無」を見る読解は、「結局論者自身の形而上学を映し出しているにすぎず、ミース自身は、きっと、俺は知らんよ、そんな理屈、といったに違いない、と私は確信している」と断じます。何を「確信」しようがご自由ですが、なぜ「確信」できるのか、と問いたいところです。さらに、確かにミースは「俺は知らんよ、そんな理屈」と言うかもしれないにせよ、だからどうだと言うのでしょうか。沈黙によって、あるいは「理屈」を退けることで守られてしまう「権威」もあるはずです。八束さんのように建築家でないわたしとしては、建築家に逆らってでも建築を人文知の分析対象にすることは当然可能だと信じます。徹底して分析し言語化するか、どこかで躊躇して権威を神話化するかのいずれかです。上記のような、「言説を誘発する構造」そのものを分析対象とするならば、リベスキンドについても、沈黙すべき理由はわたしには微塵もありません(ちなみに、リベスキンドの建築が解釈の言説を誘発するのは、ひと言で言えば、それが「文字」だからでしょう)。ついでながら、わたしの『ミース・ファン・デル・ローエの戦場』は、こうした構造こそを分析しようとした試みでした。

リベスキンドの友人の八束さんは、それこそいろいろなゴシップ情報をお持ちで、この文章で一番面白かったのはその部分です。ユダヤ博物館近所のトルコ人たちにとっては、こんな異様で巨大な建物など通行の邪魔でしかない、という話など。そこにあるように、「ヴォイド」は生けるトルコ人にはあまり関係ない、「非在」をめぐる「文化的儀式」の産物には違いありません。しかし、この建物をめぐって展開されているマイクロ・ポリティクスは「トルコ人/ユダヤ人」といった単純な図式ではないし、「文化的儀式」一般の問題として論じることもできません。ホロコーストの表象および表象不可能性が近年ますます問題になるのは、その生き残りの人々が徐々にすべて亡くなりつつあるという歴史的な時間の進行に付随した現象です。さらに、この博物館やホロコースト・メモリアルが、ドイツあるいはベルリンという都市における国家や行政府とユダヤ共同体との政治的な駆け引きの産物であることも明らかです。さまざまなファクターが相互に作用し衝突を繰り返した結果の産物としてユダヤ博物館は建造され、現在使用されている。過度な形而上学的解釈はわたしも批判したいと思いますが、それに代わるのがゴシップであるわけもない。この文脈においてもまた、公的な設備・空間としての建築をめぐって、社会科学的な知がその形成過程を厳密に検証すべきであり、つまり、語られるべきことを明確に語ることこそが必要でしょう。

こうした言わずもがなの感想をあえて公開しているのは、八束さんの文章がリベスキンドの建築を徹底して世俗的に読む方向を示唆していながら、中途半端な身振りによって、形而上学的読解と同様の解釈の「閉域」を形成しているように思われたからです。「書けない」ことを「書く」八束さんの身振り、「ことば」が欠けていることを末尾に書き付けて終わるその文章は、最悪の意味でいかにもリベスキンド的な「文化的儀式」ではないでしょうか。

リベスキンドの建築を過大に評価する形而上学的言説が共犯関係を結んでいるのは、八束さんが指摘するように資本主義でもあるでしょうし、先に述べたこの時代特有のヨーロッパ/アメリカを中心とした歴史意識でもあるでしょう。それらに分析を加えることは、八束さんの言う「文化的儀式」それ自体に対する批判的距離を確保することに通じます。わたしはそうした距離を確保しつつ、リベスキンドの建築とその神学を、ベンヤミン的な「歴史的唯物論」の立場から、できるかぎり世俗的に読んでゆきたいと考えています。 

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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