Blog (Before- & Afterimages): 2016年9月アーカイブ

2016年9月アーカイブ

 BABYMETALはわたしにとって謎だった。
 ロックを聴いてきたとはいえ、ヘヴィメタルのファンでもなければ、いわゆるアイドルに興味も関心もなかった自分が、なぜBABYMETALのライヴ映像を繰り返し視聴し、SU-METALの歌声に忘れかけていたものを思い出させられたようにして、勇気づけられてしまうのか。
 理詰めで考えようとすればするほど、わからなかった。BABYMETALに対する評価に自分で確信がもてなかったのである。
 BABYMETALを聴いたときの「何かとんでもないことが起こりそうな予感」とでも呼べるような感覚は、以前であれば、故デヴィッド・ボウイをはじめとした、ロックのもっとも先端的な表現にのみ、感じてきたものだった。
 その「何か」をあの日、ネット上でたまたま見つけた「紅月-アカツキ-」のライヴ映像に感じ、演奏と歌の完成度の高さ、そして何よりもSU-METALの「声」にびっくりしてしまったのである。ただものではない、と。
 ちょうど先日亡くなり、残念なことに追悼文を書かなければならなくなったボウイについてずっと考え書いてもきた「ロックとは何か」という問いが、いまはこの歌姫を中心とするBABYMETALという存在によって、別のかたちで引き継がれているようにわたしは思った。だから、ここに書こうとするのは、そんな極私的な思いを背景にした、BABYMETALという、ふたたび見出された「ロックの幼年時代」をめぐる考察である。

 BABYMETALの活動は「メタルレジスタンス」と称されている。禁じられ失われていた「メタル」の魂を奪い返すための、某巨大勢力に対する聖戦という意味合いが、この「レジスタンス」の名には込められている。こうしたいわば「反体制」のカルト志向は、なかばはギミックであることを承知のうえでなお、カウンター・カルチャーとしてのロックをすり込まれた世代の「ロック幻想」に訴えかけずにはおかないだろう。
 現在のバックバンドである神バンドの力量が突出しており、その技術を引き出すようなソロ・パートを通して、これが正真正銘のメタルの音楽活動であることが強くアピールされている。だが、レジスタンスという「戦い」をもっとも鮮明に表わしているのが、SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALの三人の少女であることは言うまでもない。彼女らのイメージは、「敵」が明確である点でも、その衣裳が赤と黒(とくに黒)を基調とするゴスロリ風の「鎧」を思わせる一種の戦闘服(それは制服のようにほとんど形態を変えない)である点からも、いわゆる「戦闘美少女」の極めつきのかたちと言っていいだろう。「Road of Resistance」冒頭の振り付けなど、まさに馬を駆る騎馬戦士の動きではないか。
 「戦闘美少女」というキャラクター類型については、柳田國男の「妹【ルビ:いも】の力」などを背景として、巫女のような霊力の存在が指摘されることが多い。SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALが、メタルを司る神「キツネ様」によって三人の少女に降臨したメタルの使徒であるという設定は、これも言うまでもなく、「狐憑き」という巫女的なシャーマニズムへの連想にもとづいている。少女たちはシャーマンなのだ。
 これはおそらく現実にもそうなのであって、ステージ上での彼女たちのパフォーマンスの正確さとその肉体のタフさは尋常なものではなく、何かが乗り移っているとしか思えない。だとすれば、そのステージに少女たちの等身大の日常を反映したMCなど入る余地のないことは当然だろう。高度な技術をもったバックバンドによる大音量の攻撃的なサウンドを背にして、徹底的に作り込まれた虚構としてのレジスタンス戦士を歌とダンスによってこのうえない精度で演じきってはじめて、シャーマニズム的なパフォーマンスは完成する。「戦闘美少女」には「救済」のテーマがつきものだけれど、BABYMETALの場合、「メタルの、ロックの〈救い〉は美少女から来るのかもしれない」と思わず信じたい気持ちにさせられてしまうのだ。
 この「精度」と「演じきる」徹底性こそがきっと重要なのである。BABYMETALのパフォーマンスは、演じている自分を意識した「自己言及性」や素人臭いアマチュアリズムが聴衆に「身近さ」を感じさせる、といったポストモダンな「日常性の美学」や「近さの美学」とは無縁である(三人の少女のステージ上とステージを離れたときとのギャップを慈しむことは、また、別の問題である)。SU-METALの歌やYUIMETAL、MOAMETALのダンスが、神バンドの演奏と拮抗して優にそれらをリードするプロフェッショナルなものであることは、偏見なしに視聴さえすれば、あまりにも明らかだろう。
 とくにすべてを「ねじ伏せる」説得力をもっているのはSU-METALのヴォーカルである。やたらに技巧的な「上手い」歌い方ではなく、それゆえ通常の意味で「表現力」があるとも思わないけれど、彼女の声は突き抜けていて揺るぎがない。それは「鼻腔共鳴」で50音をすべて均一に鳴らすことができる、抜きん出た声だという説もある(http://wanko-metal.seesaa.net/article/418422717.html参照)。
 バックバンドの強烈なサウンドすらもねじ伏せるその響きの力は、わたしがかつてボウイの声に聴き取ったものであり、ロックに託していた、何ものかへの「レジスタンス」の「夢」を感じさせてくれる歌声なのである。そう自覚した以上、わたし自身、「確信がもてない」などと尻込みしている場合ではなかった。「前線」で闘っている少女たちは応援すべきだと悟ったのである。
 「紅月-アカツキ-」がX JAPANへのあからさまなオマージュであることをはじめとして、メタルやロックへのオマージュ的なフレーズに始まり、童謡や民謡、歌謡曲やポップスなどを幅広く参照した、ノスタルジア(懐かしさ)を喚起する要素がBABYMETALの楽曲にはある。ただ、それはたんなる回顧的反復ではなく、問題はそうしたノスタルジア喚起的な要素がどのように変換・演出されているか、というところにこそある。
 ハイブリッドなオーディオ・ヴィジュアル的要素の寄せ集めによって、年齢的・性的なバリア(「少女たちによるヘヴィメタ」という矛盾)をやすやすと越えてしまっている点は、ボウイに始まるポピュラー音楽の系譜でもある(その意味では、ボウイの生前にBABYMETALについての感想を是非聞いてみたかった)。アルバム『キモノ・マイ・ハウス』(1974年)など、ポップなセンスのハイブリッドなロックによって知られる米国のベテラン・バンド「スパークス」のロンとラッセルのメイル兄弟は、昨年(2015年)、BBCの番組でDJを務めたおり、BABYMETALの「ヘドバンギャー!!」を選曲し、「世界一のバンドだ」と紹介している。スパークスのどこか奇妙で妖しいポップな楽曲には、BABYMETALの「かわいさ」を体現するYUIMETAL、MOAMETAL二人を中心にした曲に通じる自由な感覚がたしかにあるように思う。
 このハイブリッド性を思えば、BABYMETALがメタルであるかどうかなどといった論争や批判など、まったくどうでもいいことである。「こんなものは本当のメタル、本当のロック、本当の音楽じゃない」と批判し、「際物」として排除することは、いままでも実験精神のあるミュージシャンたちに対してさんざん行なわれてきた、保守的な紋切り型に過ぎない。同様に、BABYMETALを細分化されたメタルのジャンルのひとつに押し込めようとすることも間違っている。細分化されすぎたジャンルの、その恣意的な区分のなかで本質論を展開することほどつまらないことはない。もちろん、メタル愛はあっていいのだが、ここではもっと大きな括りで、BABYMETALをロックの系譜のなかで考えたいのはそのためだ。
 アメリカ文学者の大和田俊之氏は「〈切なさ〉と〈かわいさ〉の政治学──PerfumeとBABYMETALに見るオリエンタリズム」という論文で、Perfume(BABYMETALと同じ事務所の先輩)がYMOの「テクノオリエンタリズム」を引用しつつ、「実現しなかった未来」を「切ない」ものとして表象している一方、BABYMETALにおけるヘヴィメタルへの「かわいさ」の注入は、時間を凍結させ、ノスタルジアを喚起しているという、興味深い指摘をしている。この指摘は、四方田犬彦氏が著書『「かわいい」論 』で、「かわいさ」をミニアチュール(小さいもの)と関連づけ、そこに無時間性やノスタルジアが宿る、と主張していることにもとづいている。
 「メタルを奪い返す」という「メタルレジスタンス」の物語自体が、失われた「メタル」へのノスタルジアに由来してはいないだろうか。わたし自身に引きつけて言えば、BABYMETALに託している最大のノスタルジアはたぶん、かつてロックが約束しているように思えた、何か革命のようなものへのノスタルジアなのだろう。大和田氏はこのノスタルジア効果を「かわいさ」の注入によるものと見たのだが、それをここではBABYMETALという名の「BABY」が表わす「幼年性」ととらえてみたい。
 BABYMETALの音楽を通して、わたしたち、かつてのロック・ファンが取り戻したいと願うのは、自分が失ってしまった「幼年性」としての、とても真摯な「おさなごころ」のようなものではないか。SU-METALの途方もなく「まっすぐな」声が神バンドの奏でる轟音を貫き、YUIMETAL、MOAMETALの一心不乱なダンスとシンクロしてその威力を何倍にも増すとき、そこに感じるのは、「ロックの幼年時代」とも言うべき、あらゆる可能性があったはずの未来の感覚である。「幾千もの夜を超えて/生き続ける愛があるから/この身体が滅びるまで/命が/消えるまで 守りつづけてゆく」──ボウイは「生き延びる」という意志がロックの本質だ、と語ったことがあるのだけれど、「紅月-アカツキ-」のこの歌詞を歌うSU-METALの声にわたしが直感したのは、そんな意志だったのかもしれない。
 BABYMETALの少女たちはMetallicaをはじめとする数多くのバンドと交流し、メタルという音楽を吸収して学んでいる。その継承のされ方自体が画期的ではないだろうか。BABYMETALをマーケット戦略にもとづく「商品」としてのみ見ることほど、貧しいとらえ方はないと思う。仕掛けは仕掛けとして、仕掛け人たちの思惑を超えてしまったものがたぶんそこにはある。少女たちとバックバンドのみならず、作詞・作曲陣や振り付けその他まで含めたトータルなチームとしてのBABYMETALであり、そのフロントを張っているSU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALの三人の無限の可能性をわたしは信じたい。
 シンガーソングライターのロードは、まだ17歳くらいだった数年前にボウイと会い、彼から「君の音楽を聴いていると、明日を聴いているような気がする」という言葉をもらったという。SU-METALの歌声にはそんな「明日」がある。とても懐かしい明日が。
 だから、BABYMETALとは──もはや謎ではなく──ふたたび見出された「ロックの幼年性」であり、その「希望」なのである。
(『別冊カドカワ DIRECT 04 BABYMETAL』、KADOKAWA、2016年、52〜53頁。)

モンタージュ/パラタクシス(3)

『UP』9月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第45回です。
書誌情報は 田中純「モンタージュ/パラタクシス(3)──マックス・エルンスト《主の寝室》の「皮膚」について」、『UP』527号(2016年9月号)、東京大学出版会、2016年、55〜61頁。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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