竹峰義和『〈救済〉のメーディウム』書評 - Blog (Before- & Afterimages)

竹峰義和『〈救済〉のメーディウム』書評

先日(1月26日)の合評会で読み上げた書評コメントを公開します。

なお、これは参加者にしか通じないことかもしれませんが、コメントのやりとりのなかで話題になった「偽装」「擬態」についてひとこと
「これは偽装である」と公然と演じられた「偽装」に対する苛立ちめいたものを会場で表明したのは、そこで仮定されている偽装と実態との差のようなものは実際には存在せず、「これは偽装である」という演技で確保されようとしているアイロニカルないしシニカルな距離は、みずからみずからを欺くための罠でしかないからです。たとえば、どんなに破壊的な知を語っていようが、大学行政の現場で資金獲得のために官僚的に振る舞っているかぎりは、ひとは大学官僚なのであり、そのことの(苦い?)自覚をもつしかない。「官僚的な自分は偽装だ」などと言うのは逃げでしかない。制度のなかにいるというのはこのアポリアを生きることであり、だから、わたしがコメントのなかで触れたアポリアはきわめて日常的で実践的なそれなのです。
そうした自覚が強いからこそ、テクストや作品、あるいは書物という「メーディウム」に賭ける期待が大きくなる。メーディウムの形式に過重な負荷をかけて内破させようとするクルーゲたちの、或る意味で愚直な振る舞い──モダニスト的な──にシンパシーを抱くのは、そこにほんとうに内破が生じるかもしれない、それが文化や社会の変化──革命?──に通じるかもしれないという、ほんのわずかばかりの希望を抱いてしまうからでしょう。そして、そんな希望を感じる可能性がまったくなければ、いま、ベンヤミンやアドルノ、クルーゲ、あるいはその他のひとびとのテクストや作品を読むようなことはしない。
「モンタージュ」という概念にわたしが拘泥しているように見えるのは、それがたかだか「コピペ」という技術にまで日常化しているのに、いまだになにか新しい文化技術であるかのような語られ方がなされており、そこに上記の「偽装」と同じく、日常的実践からの乖離を演出する理論的言説の欺瞞性を感じるからです。見定めるべきは、ヘルダーリンの詩のように打ち砕かれた言語の廃墟をもたらす暴力それ自体であって、そこに生じている出来事を正確に表わす概念こそが必要でしょう。それは一周回って「文学」であるのかもしれないし、そうであってもよい──しかし、そのとき、「文学」そのものがすでに「文学を偽装する何か」などという距離を喪失し、剥き出しの暴力に晒されているという条件のもとでのみ。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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