修士修了生への言葉 - Blog (Before- & Afterimages)

修士修了生への言葉

表象文化論コースの学位授与式で読み上げた原稿です。
院生・卒業生の皆さんへのメッセージとして掲げておきます。

 修士課程を修了なさった皆さん、おめでとうございます。

 修論を書き、審査を受けていたころの緊張も解け、就職なさる方も進学する方も、4月からの新生活に思いをめぐらせていることと思います。

 修士論文を書き上げ、審査を経て、一定の水準をクリアした皆さんは、解答のある問いに答えるための「勉強」ではなく、みずから問いを立てる創造的な「研究」を始める資格を得た段階にあると言ってよいでしょう。論文という論理的なテクストを完成させる能力もそこで認められたと言えます。

 さて、問題はこれからです。これからはもう、その分析能力と「書く能力」を活かして、一刻も早く「プロ」として活躍していただきたい。就職する○○君はさっそく「もの書き」のプロになるのですし、院生の皆さんも少なくとも「セミプロ」の意識で研究に取り組み、アウトプットを生み出してほしい。言い換えれば、もう「知の技法」の「お勉強」をしている段階ではない、ということです。

 とくに「日本語で論理的な文章を書く」能力ほど、いま現在の日本の社会に欠けており、だからこそ求められている能力はありません。そのために必要な論理的な分析能力も同様です。新聞社で働く○○君にお願いしたいのは、日本のマスメディアを立て直してほしい。とりわけ政治を語る際の、つねに政局や硬直化した政治イデオロギーに囚われた見当違いの世論操作めいた言説をどうにか変えてほしい。真に公論(公の言説)が問題にすべきは何かという根幹を忘れないでほしい。新聞記事はもちろんいま現在の社会のなかでその社会に生きる人びとに向けて書かれるわけですが、しかし、最終的にその内容の審判を行なうのは「歴史」でしょう。何が言いたいかというと、「歴史」に対して恥じないことを基準に「公論」を書いてほしい、ということです。

 やたらに大きなことを述べているようですが、博士課程に進学する皆さんにも同じことを求めたい。自分の研究や著作を審判する絶対的な基準は、同時代の学会やグローバルな学者共同体ですらなく、究極的には「歴史」でしかないとわたしは考えています。われわれ人文学者は同時代のためにのみ書くのではありません。

 そのためにも重要なのは、生半可なかたちで答えなど出ない「問い」こそを抱え続けることです。意識的にせよ無意識的にせよ、自分がつねに立ち戻ってしまうような問いの場を、どこかにもっていること。その意味でいつも想い出すのは、表象文化論学会の設立にあたってこの表象文化論の創設者である渡邊守章先生が仰った「偉大なテクスト」との出会いこそが重要だ、というお言葉です。いつまでも「問い」として眼前に立ちはだかり続けるようなテクストや作品に対して、幾度も繰り返し試みられる解釈という格闘を経験しない者に、人文学の凄みなどわかるはずもありません。それはまた、学問に限られた話ではなく、たとえばジャーナリズムにおいても、日々の事件を追うばかりではなく、一生追跡することになる社会問題などの「テーマ」がこの「問い」に当たるでしょう。

 そして、偉大なテクストや作品、テーマとの関係は、こちらが恣意的に愛したり、飽きて捨てたりできるようなものではありません。それははるかにつらい、傷つけられるような体験です。それがつまりは、答えなき巨大な「問い」との、さらに言い換えれば「歴史」との遭遇です。そんな遭遇とは、どんなものであれ、テクストや作品に「選ばれてしまう」という経験でしょう──いわば、逃れられない「運命」のようなものとして。

 さて、いささか大上段に振りかぶった言い方になってしまったので、少し現実的な話をすると、人口比が極端に高い団塊の世代の高齢化により社会保障費がひたすら膨張する状況下では、国の予算の奪い合いに高等教育が勝てる見込みは当面のところありません。わたしは副学長として人文社会科学分野の振興を担当していますが、何をするにもお金がかかり、効率性を考えなければなりません。しかし、院生の皆さんへの経済的支援は、今後、卓越大学院制度のもとで、全学的に充実させてゆく計画ですし、そもそも、たとえ国から得る予算が削減されても、それを消耗するばかりの撤退戦ととらえるべきではありません。限られたリソースを駆使した、まったく新しい「前衛」としての闘い方もあるはずでしょう。とくに人文学を牽引すべき院生の皆さんにはそんな闘い方をわれわれとともに考えてほしいと思います。皆さんは少なくとももう立派なセミプロなのだから。
 
 今日、わたしが申し上げた「歴史」や「運命」について、その言葉の感触を理解していただくために、松浦寿輝先生の新著『名誉と恍惚』をお勧めします。これは1930年代後半の上海を舞台にしたサスペンス的な小説で、直接は学問にもジャーナリズムにも関わる内容には見えないかもしれません。けれどわたしは、この書物を読んで、松浦先生が文字通り「格闘」しているのは「近代日本」という巨大な「問い」であるという実感を持ちました。事実、松浦先生ご自身、この小説が『明治の表象空間』の続編であると語っていらっしゃいます。

 『名誉と恍惚』では二つの短いフレーズがエピグラフとされています。そのひとつはシモーヌ・ヴェイユの「至高の恍惚は注意力の充溢だ」というもので、もうひとつはアルベール・カミュの「名誉とは貧者に残された最後の富である」というものです。この「名誉」は人びとが賛辞を捧げて表彰する「栄誉」ではありません。むしろ「矜恃」や「誇り」のようなものです。

 巨大な「問い」と遭遇してしまう或る「運命」のもとに生き、「歴史」こそを絶対的な審判者とするとき、わたしたちは否応なく「貧者」たらざるをえないのかもしれません。しかしそれでも、わたしは「名誉」を守りたいと思う。『名誉と恍惚』を読み終えたとき、この「名誉」という言葉が、「恍惚」という言葉とも響き合い、とても輝くように感じられるのですね。そして、少なくともわたしは「名誉」を求める主人公の姿に研究者としての自分、いや、「ものを書く人間」としての自分が強く鼓舞されるものを感じました。

 いまの皆さんには重すぎる言葉に感じるかもしれませんが、この「名誉」という言葉を、皆さんの門出に際して贈りたいと思います。皆さんひとりひとりの「名誉」に恥じぬような「プロ」「セミプロ」としての4月以降の活躍を期待しています。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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