イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である』 - Blog (Before- & Afterimages)

イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である』

イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である──社会科学のためのマニフェスト』(真野倫平訳、名古屋大学出版会)について。
文学的要素を排した(それでいてその現実効果を密輸入している)従来の科学主義とも、フィクションの主観性を絶対化する文学とも異なる、厳密に科学的であるからこそ文学的な営為としての歴史を著者は唱える。それはフィクションの活用を否定しない。そのときフィクションはあくまで、真理追求の過程における「認知的」な効果において導入されるのであり、それがフィクションであることが明示されなければならない。このように歴史叙述の舞台裏を見せ、研究し考察し論述する歴史家自身のプロセスを開示することによってもたらされる反省作用こそが、歴史をより透明で開かれた、公共的な知の生産の場、真理探究の場とするのである。
社会科学としての歴史をより自由にし、あくまで真理を追い求めるがゆえに、批判と抵抗・闘争の役割を果たしうる知的活動たらしめようとする著者の志向は、「ポスト真実」と呼ばれる時代における研究者の指針としてよく理解できるし、切実でアクチュアルなものでもあろう。歴史をあくまで「社会科学」として位置づけ、社会科学の未来を開きうる活動としているのも、社会への積極的な貢献を果たそうとするそのような志向性のゆえだろう(著者は「社会科学」ではなく「人文科学」でも良かったとひと言だけ述べているが、それでもあえて「社会科学」が選択されている事実には、無意識的にせよ、上述のような志向性の反映が感じられる)。
そのためには歴史のテクストをより雑種的なものとし、実験を試みるべきである、というマニフェストには全面的に賛同する。資料に即した証明の論理を必要とするからこそ、歴史はそのとき、文学よりもいっそうラジカルな批判的機能を担いうる、という主張にも同意できる。歴史を書くという営みを、大学の専門的研究者に限定することなく、広く公衆に向けて開放するためにも、こうした雑種化の戦略はたしかに有効だろう。
著者は本書のマニフェストとしての効果にかなり意識的なので、歴史と文学との関係については、手堅い史学史的な(やや冗長でさえある)記述を慎重に積み重ね、言語論的転回の批判的総括を経て、従来のような科学主義的歴史叙述を退けるとともに、歴史をナラティヴに還元することも避けたうえで、「厳密な歴史こそが現代文学である」という明確なテーゼのもと、歴史の書法の雑種化という実験の推奨を力強く結論づけている。そのようなものとしての歴史の再定義については、この書物がマーケットとしているフランスという国・言語圏の言論界が強く意識されていることは間違いない。マニフェストであるからには、これは或る種の雄弁術の産物でもある。わかりやすい歴史的展望を踏まえたうえで、自著『私にはいなかった祖父母の歴史』を含む数多くの参照対象を引いて、ありうべき「現代文学としての歴史」を著者が活写する際にも、フランスの知的階層の読者をどれだけ説得できるかという観点からなされた選択の働いていることが感じられる。ありていに言ってしまえば、そうした論及対象のセレクションもその扱い方もきわめてヨーロッパ中心的、フランス中心的なのである。それが一概に短所とは言い切れないものの、たとえばヘイドン・ホワイトの議論や言語論的転回の評価については、もう少し丁寧に論述されても良かったのではないかと思われた。歴史と文学が取り結ぶ関係の再編成については、「実用的な過去」をめぐってまさに晩年のホワイトが論じていたところでもあるのだから。
自由、透明性、市民に開かれた歴史──マニフェストのなかで積極的な価値として語られる理念に、いかにもフランス的な理想を見るのは僻目というものだろうか。その理想の意義は否定しない。歴史叙述者が自分自身を叙述対象に加え、その出自や背景、研究や執筆のプロセスをも正確に書き表わし、資料や証拠を明示して推論の過程そのものを歴史叙述のなかに書き込んだうえで、さらにさまざまなブレヒト的異化の方法を駆使することにより、読者が歴史の論理をそこに認知できるようにするという、本書が提唱する歴史叙述の方法は、なるほど、歴史叙述を刷新するために有効なものたりうるに違いない。そのように歴史の研究や叙述のプロセスを公明正大に見せる透明性が、複数の他者による検証へと開かれた知を生産し、それをさらに前進させることを可能にもするだろう。著者のこうしたヴィジョンはまったく非の打ち所がないほど正しく思える。
しかし、その明るいヴィジョンに「真理」や「理性」への信仰にも似たものを感じてしまうのは、わたしがポスト・モダンな思想に毒された人間だからなのだろうか。著者が素朴にそうした信仰を抱いているとはとうてい信じられぬがゆえに、明示的には語られていないテクスト的戦略──フランス的価値観へのアピールのための──がそこにあるようにすら思われる。しかし、それは著者自身が称揚する透明な「歴史の書法」を裏切ることにはならないのだろうか。正直なところ、最初からおのれの理論的な結論への確信に満ちているように響く本書の話法が、わたしには著者の主張と齟齬を来たしているように感じられてならない。
繰り返すが、本書は歴史の実践に多大な刺激を与える示唆に満ちた、歴史叙述におけるさまざまな実験を鼓舞する力強いマニフェストである。それは歴史を書くという知的営みをより自由なものにしようとする意志に溢れている。本書が刺激となって、日本においても、歴史研究および文学創造の現場で、あらたな歴史叙述の方法を開拓する実験が試みられることを願ってやまない。
ただし、歴史叙述のあり方をめぐって著者と多くの関心と志向を共有しつつ、わたし自身は「真理」や「理性」をめぐる執拗な懐疑ゆえに、ポスト・モダンなものかもしれぬアイロニーを手放すことができない。そして、社会科学としての歴史が自由な実験と公共的な知の生産のフィールドであること自体に対してもアイロニカルな距離を保ち、むしろそこで書かれ構成されるものを含む歴史叙述に対して「逆撫で」(ベンヤミン)を行なうような実践にこそ注意を向けたいと思う。真理の探究や知の生産そのものが孕んでいる不安や亀裂のみが、わたしたちに「歴史」を──歴史と直面する必要性を──発見させるのではないかと考えるからである。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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