Blog (Before- & Afterimages): 2018年8月アーカイブ

2018年8月アーカイブ

荒川厳夫「桔梗」──8月6日に

荒川巌夫とは橋川文三の弟・橋川敏男のペンネームである。若くして亡くなった彼が結核の療養所で詩友たちと作った「高原詩の会」によって刊行されたその詩集『百舌』から、広島の原爆で亡くなった少女の思い出をめぐる詩「桔梗」を以下に掲げる。敏男はこの詩集が刊行される三日前に28歳で永眠している。
なお、荒川巌夫とその詩集について詳しくは、本ブログの次のエントリを参照していただきたい。→荒川厳夫『百舌』詩抄 また、拙著『過去に触れる』にも同内容の紹介がある。

荒川巌夫
桔梗

病室の花籠にゆれている数本の桔梗の花 
かよわげだが一生懸命咲いているその花に 
松島音頭の歌を想い出す
その歌を「これは一寸難かしいんよ」と言い言い 口ずさむような声で歌っていた 
少女のことを想い沈む

「桔梗の花は童話のお姫様みたいだから好き」
小学校の頃から女学校の三年生になるまで 毎年のならわしのように その年はじめて見つけた桔梗の花を 私の花瓶に生けてくれながら そんなことを言っていた少女

一夏 私は山道にたった一本だけ咲いている桔梗を見つけ 少女に先んじて花瓶にさしたその晚 数学の質問にやって来た少女は それを見て驚いた 一瞬暗い悲しげな影が顔をよぎったように見えた

「来年桔梗が咲くまでの一年間に きっと私の運命に重大な狂いを生ずるわ
少女はなかばおどけたように なかば心もとなげな表情で言い 私は大声で笑った その幻想と 大ぎょうな言葉使いが可笑しく 又かわいらしかったからだが──

ああ 毎年私の花瓶にさす 一本の桔梗の花に明方の乳色の靄のような運命を占っていた少女よ 私の心ない仕業を悲しむあの表情 あの口調のひびきは 今もそのままよみがえって私の心を嚙む

翌年八月六日
少女は広島で死んだ
亡骸はついにみつからなかった
五日間 街中を 島々を さがしまわった母親は 偶然川端に あの朝小女がかむって出た白いピケ帽を見つけた その焼け残りのすゝけた布切に はっきりと我が子の名前を読みとった母親は 頰ずりしてその場に泣き崩れたという その布切が唯一の遺骨の代りとして墓に埋められたが──

柔らかに艷やかなおかっぱの黒髪 その下の色白な顔 
八重歯ののぞく口もと きちんと結ばれた真白なネクタイ 折目の綺麗なセーラー服のスカートからのびたすんなりした脚......
ああ あの黒髮が焰となり あの顔が焼け崩れ 焦げちぎれたモンペをひきずってあの脚で よろよろと此の川端をどこかへ歩いていったのであろうか 母を呼び 水を求めて 獣のように顔をゆがめ 皮膚をかきむしったのであろうか

原子雲と一しょに 空の彼方に消えてしまったかのような少女 しかしこれはお伽話ではない 此の頃の此の夏雲のたたずまいの下で これは遠い昔の悲しい物語ではない

桔梗の花が風にゆれる
──運命に重大な狂いを生ずるわ──
あの一瞬よぎった暗い悲しげな表情のみが 想い出を占め続ける
(一九五二・八・一〇)

Website

Profile

田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

Profile (日本語)
Profile (English)

J-GLOBAL 研究者情報
J-GLOBAL English

科学研究費交付実績

『政治の美学』情報

最近の画像

2018年8月

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
CURRENT MOON

月別 アーカイブ

過去のブログ記事