Blog (Before- & Afterimages): Essaysアーカイブ

Essaysの最近のブログ記事

『みすず』読書アンケート特集

寄稿した回答は次の通り。

・Simon Critchley, On Bowie. London: Serpent's Tail, 2016. デヴィッド・ボウイの楽曲とみずからの人生との関わりを軸として、時代を追いながら、ごく短い章を連ねるかたちで思索的なエッセイが綴られている。英国の哲学者である著者とは生年月日がまったく同じせいか世代経験に似たところがあり、深い共感をもって読み進めた。
・山内志朗『感じるスコラ哲学──存在と神を味わった中世』(慶應義塾大学出版会) 霊的感覚と味覚、酩酊の哲学といったテーマがすこぶる面白い。味わいを通じて神を語る神秘主義が知らしめる、「制度としてのキリスト教」とは別物の、「情念と感覚が草むらにたむろする裏街道」。著者は「ワインは飲むことのできるスコラ哲学かもしれない」と言う。
・三橋修『〈コンチクショウ〉考──江戸の心性史』(日本エディタースクール出版部) 「畜生」という悪態語の成り立ちを江戸時代にたどり、「畜生」の性質を女性のセクシュアリティに見る社会通念を見出したのち、「子供」というカテゴリーの生成過程を衆道との関係で追跡してゆく。その果てに差別の問題まで視野に収めた名著。
・持田叙子『歌の子詩の子、折口信夫』(幻戯書房) 本書の最大の魅力は折口信夫という人物を、生活者としての息づかいや歌・詩を生み出す感性の原質に即して丁寧に描き出したところにある。著者が指摘するように、折口の〈古代〉が「いつの時代にも姿を変えて遍在」するものだとすれば、それは「ルネサンス」にほかならず、ヴァールブルク的な「古代の残存」という問題圏にも接続するだろう。
・御園生涼子『映画の声──戦後日本映画と私たち』(みすず書房) 四〇歳という若さで逝去した著者の遺稿集。大島渚論を筆頭とする映画論の数々は、尋常でない知的緊迫感と完成度を備えている。その繊細さと強度に、夫君である編者の「それ以外の書き方をすることもできなければ、執筆しないという選択肢もありえなかった」という述懐の意味を知るように思う。

以上。

『芸術新潮』2017年1月号の特集「デヴィッド・ボウイとアート」の記事に、ボウイが編集委員を務めた『モダン・ペインターズ』誌1996年夏号に、彼によるダミアン・ハーストのインタヴューが掲載されたという記述があり、まさにそのインタヴューをわたしが翻訳していたため、掲載誌から当該の部分をPDFにしました。かなり以前の訳文ですが、原文が手元になく、訳をチェックすることができないため、現時点での注釈はとくに加えません。

書誌情報は
デヴィッド・ボウイ「s(Now)──デヴィッド・ボウイがダミアン・ハーストに会い、生と死、そしてあらゆることについて思いに耽る」、田中純訳、『InterCommunication』No.19(第6巻第1号)、NTT出版、1997年、54〜58頁。

このテクストはたんにインタヴューにとどまるものではなく、ボウイ自身が書いた前書きをはじめとして、いささか抽象的ないしアイロニカルに遠回しな表現を取った難解な文章を含んでいます。歌詞のように読める部分もあります。とくにそうしたインタヴュー以外の箇所がきわめてわかりにくいかもしれないことは、あらかじめお断わりしておきます。

想い出す機会があったので、同人誌に書いたかなり昔の文章ですが、PDFで公開します。
田中純「悲劇のように──柄谷行人をめぐって」、『異存』創刊号、1989年、22〜26頁。

さすがに最後は若書きで気恥ずかしくなる文章ではあるものの、当時の認識としてそれなりにまとまってはいると思います。

「もぎ放されて海にただよう花のように」

『UP』に寄稿しました。書誌情報は
田中純「「もぎ放されて海にただよう花のように」──小林康夫『表象文化論講義 絵画の冒険』評」、『UP』531号(2017年1月号)、東京大学出版会、2017年、34〜38頁。

Futuristic Archaism or Archaic Futurism

論文集に寄稿しました。書誌情報は
Jun Tanaka: "Futuristic Archaism or Archaic Futurism: Gilbert Clavel's Vision of Time in Das Teleskop". In: MDRN (ed.): Time and Temporality in Literary Modernism (1900-1950). Leuven: Peeters, 2016, pp.285-296.
彰国社編『モダニスト再考[海外編]建築の20世紀はここから始まった』に寄稿しました(雑誌『建築文化』1999年5月号に掲載された論考の単行本化です)。書誌情報は
田中純「オットー・ヴァーグナー──装飾(フェティッシュ)と価値真空」(8〜21頁)、「ルドルフ・シュタイナー──神殿の世俗化」(22〜35頁)、「チャールズ・レニー・マッキントッシュ──マッキントッシュ神話とデザインの地政学」(50〜57頁)、「フレデリック・キースラー──棺としての無限住居(エンドレス・ハウス)」(252〜257頁)、彰国社編『モダニスト再考[海外編]建築の20世紀はここから始まった』、彰国社、2016年。

「歴史の地震計」のヘテロトピア

『UP』12月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第46回です。
書誌情報は 田中純「モンタージュ/パラタクシス(完)──「歴史の地震計」のヘテロトピア」、『UP』530号(2016年12月号)、東京大学出版会、2016年、38〜43頁。

せっかく催していただいた拙著『過去に触れる』の合評会なので、その場で語れなかったこと、終了後に感じた思いを記録しておきたい。(非常に長文です。PDF版 JTanaka20161130-2.pdf

昨日(2016年11月28日)の合評会「田中純『過去に触れる』に触れて」(http://repre.c.u-tokyo.ac.jp/news/?p=857)の最後に読み上げたメッセージです。

『シン・ゴジラ』の怪物的「しるし」

『ユリイカ』の『シン・ゴジラ』特集に寄稿しました。書誌情報は
田中純「『シン・ゴジラ』の怪物的「しるし」──未来からの映画」、『ユリイカ』2016年12月臨時増刊号「総特集Ω『シン・ゴジラ』とはなにか」、青土社、2016年、183〜191頁。
『図書新聞』に寄稿しました。書誌情報は
田中純「書評:ジョルジョ・ディディ=ユベルマン『イメージが位置をとるとき』」、『図書新聞』3277号(2016年11月5日号)、図書新聞、2016年、8頁。
 BABYMETALはわたしにとって謎だった。
 ロックを聴いてきたとはいえ、ヘヴィメタルのファンでもなければ、いわゆるアイドルに興味も関心もなかった自分が、なぜBABYMETALのライヴ映像を繰り返し視聴し、SU-METALの歌声に忘れかけていたものを思い出させられたようにして、勇気づけられてしまうのか。
 理詰めで考えようとすればするほど、わからなかった。BABYMETALに対する評価に自分で確信がもてなかったのである。
 BABYMETALを聴いたときの「何かとんでもないことが起こりそうな予感」とでも呼べるような感覚は、以前であれば、故デヴィッド・ボウイをはじめとした、ロックのもっとも先端的な表現にのみ、感じてきたものだった。
 その「何か」をあの日、ネット上でたまたま見つけた「紅月-アカツキ-」のライヴ映像に感じ、演奏と歌の完成度の高さ、そして何よりもSU-METALの「声」にびっくりしてしまったのである。ただものではない、と。
 ちょうど先日亡くなり、残念なことに追悼文を書かなければならなくなったボウイについてずっと考え書いてもきた「ロックとは何か」という問いが、いまはこの歌姫を中心とするBABYMETALという存在によって、別のかたちで引き継がれているようにわたしは思った。だから、ここに書こうとするのは、そんな極私的な思いを背景にした、BABYMETALという、ふたたび見出された「ロックの幼年時代」をめぐる考察である。

 BABYMETALの活動は「メタルレジスタンス」と称されている。禁じられ失われていた「メタル」の魂を奪い返すための、某巨大勢力に対する聖戦という意味合いが、この「レジスタンス」の名には込められている。こうしたいわば「反体制」のカルト志向は、なかばはギミックであることを承知のうえでなお、カウンター・カルチャーとしてのロックをすり込まれた世代の「ロック幻想」に訴えかけずにはおかないだろう。
 現在のバックバンドである神バンドの力量が突出しており、その技術を引き出すようなソロ・パートを通して、これが正真正銘のメタルの音楽活動であることが強くアピールされている。だが、レジスタンスという「戦い」をもっとも鮮明に表わしているのが、SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALの三人の少女であることは言うまでもない。彼女らのイメージは、「敵」が明確である点でも、その衣裳が赤と黒(とくに黒)を基調とするゴスロリ風の「鎧」を思わせる一種の戦闘服(それは制服のようにほとんど形態を変えない)である点からも、いわゆる「戦闘美少女」の極めつきのかたちと言っていいだろう。「Road of Resistance」冒頭の振り付けなど、まさに馬を駆る騎馬戦士の動きではないか。
 「戦闘美少女」というキャラクター類型については、柳田國男の「妹【ルビ:いも】の力」などを背景として、巫女のような霊力の存在が指摘されることが多い。SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALが、メタルを司る神「キツネ様」によって三人の少女に降臨したメタルの使徒であるという設定は、これも言うまでもなく、「狐憑き」という巫女的なシャーマニズムへの連想にもとづいている。少女たちはシャーマンなのだ。
 これはおそらく現実にもそうなのであって、ステージ上での彼女たちのパフォーマンスの正確さとその肉体のタフさは尋常なものではなく、何かが乗り移っているとしか思えない。だとすれば、そのステージに少女たちの等身大の日常を反映したMCなど入る余地のないことは当然だろう。高度な技術をもったバックバンドによる大音量の攻撃的なサウンドを背にして、徹底的に作り込まれた虚構としてのレジスタンス戦士を歌とダンスによってこのうえない精度で演じきってはじめて、シャーマニズム的なパフォーマンスは完成する。「戦闘美少女」には「救済」のテーマがつきものだけれど、BABYMETALの場合、「メタルの、ロックの〈救い〉は美少女から来るのかもしれない」と思わず信じたい気持ちにさせられてしまうのだ。
 この「精度」と「演じきる」徹底性こそがきっと重要なのである。BABYMETALのパフォーマンスは、演じている自分を意識した「自己言及性」や素人臭いアマチュアリズムが聴衆に「身近さ」を感じさせる、といったポストモダンな「日常性の美学」や「近さの美学」とは無縁である(三人の少女のステージ上とステージを離れたときとのギャップを慈しむことは、また、別の問題である)。SU-METALの歌やYUIMETAL、MOAMETALのダンスが、神バンドの演奏と拮抗して優にそれらをリードするプロフェッショナルなものであることは、偏見なしに視聴さえすれば、あまりにも明らかだろう。
 とくにすべてを「ねじ伏せる」説得力をもっているのはSU-METALのヴォーカルである。やたらに技巧的な「上手い」歌い方ではなく、それゆえ通常の意味で「表現力」があるとも思わないけれど、彼女の声は突き抜けていて揺るぎがない。それは「鼻腔共鳴」で50音をすべて均一に鳴らすことができる、抜きん出た声だという説もある(http://wanko-metal.seesaa.net/article/418422717.html参照)。
 バックバンドの強烈なサウンドすらもねじ伏せるその響きの力は、わたしがかつてボウイの声に聴き取ったものであり、ロックに託していた、何ものかへの「レジスタンス」の「夢」を感じさせてくれる歌声なのである。そう自覚した以上、わたし自身、「確信がもてない」などと尻込みしている場合ではなかった。「前線」で闘っている少女たちは応援すべきだと悟ったのである。
 「紅月-アカツキ-」がX JAPANへのあからさまなオマージュであることをはじめとして、メタルやロックへのオマージュ的なフレーズに始まり、童謡や民謡、歌謡曲やポップスなどを幅広く参照した、ノスタルジア(懐かしさ)を喚起する要素がBABYMETALの楽曲にはある。ただ、それはたんなる回顧的反復ではなく、問題はそうしたノスタルジア喚起的な要素がどのように変換・演出されているか、というところにこそある。
 ハイブリッドなオーディオ・ヴィジュアル的要素の寄せ集めによって、年齢的・性的なバリア(「少女たちによるヘヴィメタ」という矛盾)をやすやすと越えてしまっている点は、ボウイに始まるポピュラー音楽の系譜でもある(その意味では、ボウイの生前にBABYMETALについての感想を是非聞いてみたかった)。アルバム『キモノ・マイ・ハウス』(1974年)など、ポップなセンスのハイブリッドなロックによって知られる米国のベテラン・バンド「スパークス」のロンとラッセルのメイル兄弟は、昨年(2015年)、BBCの番組でDJを務めたおり、BABYMETALの「ヘドバンギャー!!」を選曲し、「世界一のバンドだ」と紹介している。スパークスのどこか奇妙で妖しいポップな楽曲には、BABYMETALの「かわいさ」を体現するYUIMETAL、MOAMETAL二人を中心にした曲に通じる自由な感覚がたしかにあるように思う。
 このハイブリッド性を思えば、BABYMETALがメタルであるかどうかなどといった論争や批判など、まったくどうでもいいことである。「こんなものは本当のメタル、本当のロック、本当の音楽じゃない」と批判し、「際物」として排除することは、いままでも実験精神のあるミュージシャンたちに対してさんざん行なわれてきた、保守的な紋切り型に過ぎない。同様に、BABYMETALを細分化されたメタルのジャンルのひとつに押し込めようとすることも間違っている。細分化されすぎたジャンルの、その恣意的な区分のなかで本質論を展開することほどつまらないことはない。もちろん、メタル愛はあっていいのだが、ここではもっと大きな括りで、BABYMETALをロックの系譜のなかで考えたいのはそのためだ。
 アメリカ文学者の大和田俊之氏は「〈切なさ〉と〈かわいさ〉の政治学──PerfumeとBABYMETALに見るオリエンタリズム」という論文で、Perfume(BABYMETALと同じ事務所の先輩)がYMOの「テクノオリエンタリズム」を引用しつつ、「実現しなかった未来」を「切ない」ものとして表象している一方、BABYMETALにおけるヘヴィメタルへの「かわいさ」の注入は、時間を凍結させ、ノスタルジアを喚起しているという、興味深い指摘をしている。この指摘は、四方田犬彦氏が著書『「かわいい」論 』で、「かわいさ」をミニアチュール(小さいもの)と関連づけ、そこに無時間性やノスタルジアが宿る、と主張していることにもとづいている。
 「メタルを奪い返す」という「メタルレジスタンス」の物語自体が、失われた「メタル」へのノスタルジアに由来してはいないだろうか。わたし自身に引きつけて言えば、BABYMETALに託している最大のノスタルジアはたぶん、かつてロックが約束しているように思えた、何か革命のようなものへのノスタルジアなのだろう。大和田氏はこのノスタルジア効果を「かわいさ」の注入によるものと見たのだが、それをここではBABYMETALという名の「BABY」が表わす「幼年性」ととらえてみたい。
 BABYMETALの音楽を通して、わたしたち、かつてのロック・ファンが取り戻したいと願うのは、自分が失ってしまった「幼年性」としての、とても真摯な「おさなごころ」のようなものではないか。SU-METALの途方もなく「まっすぐな」声が神バンドの奏でる轟音を貫き、YUIMETAL、MOAMETALの一心不乱なダンスとシンクロしてその威力を何倍にも増すとき、そこに感じるのは、「ロックの幼年時代」とも言うべき、あらゆる可能性があったはずの未来の感覚である。「幾千もの夜を超えて/生き続ける愛があるから/この身体が滅びるまで/命が/消えるまで 守りつづけてゆく」──ボウイは「生き延びる」という意志がロックの本質だ、と語ったことがあるのだけれど、「紅月-アカツキ-」のこの歌詞を歌うSU-METALの声にわたしが直感したのは、そんな意志だったのかもしれない。
 BABYMETALの少女たちはMetallicaをはじめとする数多くのバンドと交流し、メタルという音楽を吸収して学んでいる。その継承のされ方自体が画期的ではないだろうか。BABYMETALをマーケット戦略にもとづく「商品」としてのみ見ることほど、貧しいとらえ方はないと思う。仕掛けは仕掛けとして、仕掛け人たちの思惑を超えてしまったものがたぶんそこにはある。少女たちとバックバンドのみならず、作詞・作曲陣や振り付けその他まで含めたトータルなチームとしてのBABYMETALであり、そのフロントを張っているSU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALの三人の無限の可能性をわたしは信じたい。
 シンガーソングライターのロードは、まだ17歳くらいだった数年前にボウイと会い、彼から「君の音楽を聴いていると、明日を聴いているような気がする」という言葉をもらったという。SU-METALの歌声にはそんな「明日」がある。とても懐かしい明日が。
 だから、BABYMETALとは──もはや謎ではなく──ふたたび見出された「ロックの幼年性」であり、その「希望」なのである。
(『別冊カドカワ DIRECT 04 BABYMETAL』、KADOKAWA、2016年、52〜53頁。)

モンタージュ/パラタクシス(3)

『UP』9月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第45回です。
書誌情報は 田中純「モンタージュ/パラタクシス(3)──マックス・エルンスト《主の寝室》の「皮膚」について」、『UP』527号(2016年9月号)、東京大学出版会、2016年、55〜61頁。
論文を寄稿しました。書誌情報は
田中純「義兄弟の肖像──『帝国の陰謀』とその周辺をめぐって」、工藤庸子編『論集 蓮實重彦』、羽鳥書店、2016年、46〜56頁。
報告文を書きました。
田中純「  川瀬敏郎氏(花人)講演会「日本の花─どうして私たちは花をいけてきたのか」」、「教養学部報」584号、東京大学教養学部、2016年、2頁。

Web版は

モンタージュ/パラタクシス(2)

『UP』6月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第44回です。
書誌情報は 田中純「モンタージュ/パラタクシス(2)──テオ・アンゲロプロスの映画における「空舞台」をめぐって」、『UP』524号(2016年6月号)、東京大学出版会、2016年、42〜49頁。
表象文化論学会の学会誌『表象』10号に掲載されています。
書誌情報は次の通り。
岡田温司+田中純「新たなるイメージ研究へ」、『表象』10号、表象文化論学会編・発行、月曜社、2016年、13〜66頁。

『過去に触れる』の内容解説もかなり話しています。
人名索引で拾った項目の一覧(50音順)です。書籍所収の最終版ではなく、校正段階のヴァージョンです。内容の手がかりとして公開します。


『過去に触れる』詳細目次

章の下の節タイトルまで含む詳細な目次です。
『みすず』読書アンケートに寄せた文章をもとにしたものです。すでに公開したリスト掲載の書籍についてのコメントの別ヴァージョンのほか、洋書も含みます。

Website

Profile

田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

Profile (日本語)
Profile (English)

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