Blog (Before- & Afterimages): Essaysアーカイブ

Essaysの最近のブログ記事

『表象』12号に書評を寄稿しました。「特攻隊表象を「食い破る」ものたちのために──中村秀之『特攻隊映画の系譜学──敗戦日本の哀悼劇』書評」、『表象』12号、表象文化論学会、2018年、281〜284頁。
井上陽水の曲「桜三月散歩道」には、赤塚不二夫責任編集の雑誌『まんがNo.1』第2巻3号(1973年3月1日刊行)附録のソノシートに収録されたヴァージョンがある。

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これは作詞者である長谷邦夫の詩に忠実に即した先行するヴァージョンで、アルバム『氷の世界』に収められている、よく知られた曲の詞は、陽水によって歌詞や語りの内容が変えられている。『氷の世界』では陽水自身による語りの部分が、『まんがNo.1』ではレコーディング・エンジニアの大野進によって語られているという違いもある。
たとえば、『氷の世界』ヴァージョンの語りでは、「江戸川」や「帝釈天」といった固有名詞が削られており、それによって、現実に縛られないイメージの自由な連想が許されている。さらに、三番の歌詞にあった「町へ行けば革命だ」というフレーズが歌全体から削除されている点も注目されるだろう。これらの改変を通じて、この曲は『氷の世界』というアルバムの世界観により馴染んだものになっている。
しかし、楽曲としての一体性や完成度の高さとは別に、『まんがNo.1』ヴァージョンにはそれ特有の魅力がある。固有名詞を排除して、平易だが象徴性の高い言葉によってイメージを喚起する陽水の詞の世界に近づけられた『氷の世界』版とは異なり、『まんがNo.1』版にはその完結性を崩す複数の異質な要素のせめぎ合いが感じられるからこそ、陽水の曲としては貴重に思われるのである。
とくに魅力的なのは語りの声だ。『氷の世界』の陽水ヴァージョンよりも低く男性的でかすれたような大野進の声は、どうしても技巧的に響いてしまう陽水の語りよりも、詞に込められたノスタルジーには親和的だったように思える。それとは逆に、「町へ行けば革命だ」という言葉が陽水によって歌われることの違和感もまた拭いがたいのではあるが。

以下に、『まんがNo.1』ヴァージョンの詞全文を掲げる。
『UP』3月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第51回です。
書誌情報は 田中純「見えない瓦礫を投げる──「蜂起」の身振りをめぐって」、『UP』545号(2018年3月号)、東京大学出版会、2018年、26〜33頁。
アンケートに回答しました。取り上げた書籍は次の通りです。
・道場親信『下丸子文化集団とその時代──一九五〇年代サークル文化運動の光芒』(みすず書房)
・パスカル・キニャール(小川美登里+桑田光平訳)『さまよえる影たち』、(小川美登里訳)『いにしえの光』(いずれも水声社)
・鹿島茂『失われたパリの復元──バルザックの時代の街を歩く』(新潮社)

なお、谷川渥さんが拙著『歴史の地震計──アビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』論』を挙げてくださいました。ありがとうございます。
「ボウイ」表紙帯付き書影.jpg

拙訳が12月25日に刊行されました。書誌情報は
サイモン・クリッチリー『ボウイ──その生と死に』、田中純訳、新曜社、2017年。
イラストは原書と同じくエリック・ハンソンさん、装幀は祖父江愼さんです。

本書で言及されたり、言外に示唆されているボウイほかの曲(全105曲)のSpotifyプレイリストを作りました。

著者クリッチリーさんは次のプレイリストを公開しています。

本書に引用された歌詞部分の歌を編集した映像(英日二言語の歌詞付き)を作りました。
サイモン・クリッチリー『ボウイ』引用歌詞集 Cited lyrics in Simon Critchley's "BOWIE" with Japanese translation

歴史叙述における「キマイラの原理」

10+1 web siteに寄稿しました。書誌情報は
田中純「歴史叙述における「キマイラの原理」──カルロ・セヴェーリ『キマイラの原理』、ヘイドン・ホワイト『実用的な過去』」、10+1 web site, Web. 25 Dec. 2017. http://10plus1.jp/monthly/2018/01/issue-01.php
『UP』12月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第50回です。
書誌情報は 田中純「死者の像の宛先──スーザン・ソンタグの亡骸」、『UP』542号(2017年12月号)、東京大学出版会、2017年、43〜49頁。内容の性質上、該当図版は掲載していません。Sontag Leibovitzで検索すれば、一部の写真は見つかります。

美のトポス、その限界と外部

『思想』に寄稿しました。書誌情報は次の通りです。
田中純「美のトポス、その限界と外部──W・メニングハウスの著作を手がかりに」、『思想』1123号(2017年11月号)、岩波書店、2017年、6〜27頁。
これは「いま、「美」とは?」というリレー連載の第一回目で、次回の執筆者は小林康夫さんです。
水族館劇場の雑誌fishbone特別編集号に寄稿しました。書誌情報は
田中純「黒い翁(サトゥルヌス)の子供たち──トリエンナーレを地底から撃つために」、2017年水族館劇場横浜寿町公演fishbone特別編集号、水族館劇場、2017年、13頁。
『UP』9月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第49回です。
書誌情報は 田中純「朔太郎の青──W・ベンヤミンを補助線として」、『UP』539号(2017年9月号)、東京大学出版会、2017年、47〜53頁。
書評を寄稿しました。書誌情報は次の通りです。
田中純「書評:ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『受苦の時間の再モンタージュ』」、『図書新聞』3312号、2017年7月22日、10頁。
『UP』6月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第48回です。
書誌情報は 田中純「イメージを喰うサトゥルヌス──ヴァールブルクとゴヤ」、『UP』536号(2017年6月号)、東京大学出版会、2017年、47〜53頁。

『UP』に書評を寄稿しました。書誌情報は
田中純「「もう一度」という思考の身振りへ向けて──竹峰義和『〈救済〉のメーディウム──ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』書評」、『UP』535号(2017年5月号)、東京大学出版会、2017年、31〜35頁。

歴史の弾道=射線(Lines of Fire)

2017年4月21日、建築学会の機関誌『建築雑誌』の特集「建築は記念する」のために、 鈴木了二氏と小澤京子氏による公開対談「歴史のイマジナリーラインズ」が開かれた。内容としては対談者それぞれの著書『ユートピアへのシークエンス』(LIXIL出版)と『ユートピア都市の書法』(法政大学出版局、近刊)に関係している。会場でわたしは二人の話を聴きながら、「歴史のイマジナリーラインズ」と「ユートピアへのシークエンス」というフレーズに喚起されたみずからの想念をたどっていた。以下に記すのは、正確には対談の評でもなければ、書評でもない、そこで紡がれた覚束ない連想の独白めいた記録である。それは建築そのものにかかわると言うよりも、むしろ、建築という「世界モデル」を通して直感された「歴史モデル」をめぐるものとなろう。
『UP』3月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第47回です。
書誌情報は 田中純「ネロ/ペルセウス──斬首された「自由」のイメージをめぐって」、『UP』533号(2017年3月号)、東京大学出版会、2017年、46〜52頁。

『みすず』読書アンケート特集

寄稿した回答は次の通り。

・Simon Critchley, On Bowie. London: Serpent's Tail, 2016. デヴィッド・ボウイの楽曲とみずからの人生との関わりを軸として、時代を追いながら、ごく短い章を連ねるかたちで思索的なエッセイが綴られている。英国の哲学者である著者とは生年月日がまったく同じせいか世代経験に似たところがあり、深い共感をもって読み進めた。
・山内志朗『感じるスコラ哲学──存在と神を味わった中世』(慶應義塾大学出版会) 霊的感覚と味覚、酩酊の哲学といったテーマがすこぶる面白い。味わいを通じて神を語る神秘主義が知らしめる、「制度としてのキリスト教」とは別物の、「情念と感覚が草むらにたむろする裏街道」。著者は「ワインは飲むことのできるスコラ哲学かもしれない」と言う。
・三橋修『〈コンチクショウ〉考──江戸の心性史』(日本エディタースクール出版部) 「畜生」という悪態語の成り立ちを江戸時代にたどり、「畜生」の性質を女性のセクシュアリティに見る社会通念を見出したのち、「子供」というカテゴリーの生成過程を衆道との関係で追跡してゆく。その果てに差別の問題まで視野に収めた名著。
・持田叙子『歌の子詩の子、折口信夫』(幻戯書房) 本書の最大の魅力は折口信夫という人物を、生活者としての息づかいや歌・詩を生み出す感性の原質に即して丁寧に描き出したところにある。著者が指摘するように、折口の〈古代〉が「いつの時代にも姿を変えて遍在」するものだとすれば、それは「ルネサンス」にほかならず、ヴァールブルク的な「古代の残存」という問題圏にも接続するだろう。
・御園生涼子『映画の声──戦後日本映画と私たち』(みすず書房) 四〇歳という若さで逝去した著者の遺稿集。大島渚論を筆頭とする映画論の数々は、尋常でない知的緊迫感と完成度を備えている。その繊細さと強度に、夫君である編者の「それ以外の書き方をすることもできなければ、執筆しないという選択肢もありえなかった」という述懐の意味を知るように思う。

以上。

『芸術新潮』2017年1月号の特集「デヴィッド・ボウイとアート」の記事に、ボウイが編集委員を務めた『モダン・ペインターズ』誌1996年夏号に、彼によるダミアン・ハーストのインタヴューが掲載されたという記述があり、まさにそのインタヴューをわたしが翻訳していたため、掲載誌から当該の部分をPDFにしました。かなり以前の訳文ですが、原文が手元になく、訳をチェックすることができないため、現時点での注釈はとくに加えません。

書誌情報は
デヴィッド・ボウイ「s(Now)──デヴィッド・ボウイがダミアン・ハーストに会い、生と死、そしてあらゆることについて思いに耽る」、田中純訳、『InterCommunication』No.19(第6巻第1号)、NTT出版、1997年、54〜58頁。

このテクストはたんにインタヴューにとどまるものではなく、ボウイ自身が書いた前書きをはじめとして、いささか抽象的ないしアイロニカルに遠回しな表現を取った難解な文章を含んでいます。歌詞のように読める部分もあります。とくにそうしたインタヴュー以外の箇所がきわめてわかりにくいかもしれないことは、あらかじめお断わりしておきます。

想い出す機会があったので、同人誌に書いたかなり昔の文章ですが、PDFで公開します。
田中純「悲劇のように──柄谷行人をめぐって」、『異存』創刊号、1989年、22〜26頁。

さすがに最後は若書きで気恥ずかしくなる文章ではあるものの、当時の認識としてそれなりにまとまってはいると思います。

「もぎ放されて海にただよう花のように」

『UP』に寄稿しました。書誌情報は
田中純「「もぎ放されて海にただよう花のように」──小林康夫『表象文化論講義 絵画の冒険』評」、『UP』531号(2017年1月号)、東京大学出版会、2017年、34〜38頁。

Futuristic Archaism or Archaic Futurism

論文集に寄稿しました。書誌情報は
Jun Tanaka: "Futuristic Archaism or Archaic Futurism: Gilbert Clavel's Vision of Time in Das Teleskop". In: MDRN (ed.): Time and Temporality in Literary Modernism (1900-1950). Leuven: Peeters, 2016, pp.285-296.

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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