Memorandumの最近のブログ記事

いばら姫

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ベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』には、幻の序文が存在する。それはメルヘン「いばら姫」の再話だった──

半世紀

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半世紀生きてしまった。

魔界

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4月から魔界をたびたび訪れることになりそうだ。

それとは別に、引き受けないほうが無難だろうと思ったことは、案の定、最後になって進まなくなる。
かといって投げ出すわけにもゆかないので、自分で背負い込むしかない。
3月7日までにすべて片が付くのか?

だが、それ以前に月曜日までに終えなければならない案件あり。
英文200頁強のものをこの忙しい時期に送りつけておいて、20日あまりで処理しろと言うのも理不尽。
読むのが楽しい内容ならまだしも。
今月はまったく狙ったように、この種のことが集中している。

イメージの自然史

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天使から貝殻まで。
ベンヤミンのMentorだったFlorens Christian Rangの著作について、いくつか調査中のことあり。例えば、講談社文芸文庫版『ドイツ悲哀劇の根源』に邦訳が収められている「アゴーンと劇場」「劇場とアゴーン」に記載された古代悲劇論に関して、その着想源を知りたいのだが、ほとんど先行研究はない。あっても、ベンヤミンとの関係などが主で、参考にならない。何か見落としている?
このRangもそうだが、「消え失せる媒介者」と言うか、後世のパースペクティヴからでは見えなくなっている人物にばかり関心を覚える。

知りたい情報が膨大な無駄な情報のなかから見つけ出せるようになったことを進歩と見るべきか。それとも、むしろ本当に必要な情報へのアクセスは難しくなったのだろうか。
まあ単純に、島宇宙的に分けられた濃密な情報交換の場があれば解決することかもしれない。だから根本的にはそうした情報の共有度の問題なのだろう。

iPadの続き

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なぜか iPad は気になる。「iPadはe-bookリーダーじゃない」という見方もあり、そして、Kindleとはターゲットが異なることもわかるが、Amazonがどんなe-bookを提供しようが、現在のKindleでそれを読もうとは思わない。
iPad に惹かれるのは、要するにその物体としての魅力のせいなのだろう。その意味では玩具であって、たわいもない。
対してKindleには玩具としての面白みがまったく欠けている。
つまり、わたしにとって書物は相変わらず「暗い玩具」ということなのだろう。

しかし、いわゆる電子出版そのものに期待がないかというと、そうでもない。
原稿を仕上げてから半年以上経たなければ編集が動き出さないとか、そもそも校正まで出たところで社長の一声によってシリーズものが打ち切りになるとか、出版社や編集者にはかなり恵まれている自分ですら、この業界の前近代性を感じることはある。贅沢を言っているのかもしれないが、もっと合理化して計画的にできる部分もあるだろうに。
とはいえ、校正もろくにされないまま世に送り出されるような粗製濫造よりははるかにましか。

今月は無謀にも予定してしまったイベントのほか、予想もしないノルマまで降りかかってきて悪戦苦闘。腰痛も疼き出し、これで乗り切れるのか、いささか不安。
世間では検察批判が一部で喧しいらしいが、権力者の擁護に躍起になっているように見えて異様だ。
せっかく政権を奪取したのなら、選挙に勝つためのノウハウしか取り柄がない古いタイプの政治家やその操り人形など早々に切り捨てて、新しい政党に生まれ変わればいいものを。数あわせのために弱小政党と連立を組んで政策の方針をねじ曲げるなど、あきれ果てた話である。

改革、とは、身近に聞く話でもある。かつて勤めていた組織で、機構改革を手がけた「カミソリ」と呼ばれる人物の改革案が、守旧勢力に潰されたことを思い出す。

つぶやき

一ヶ月以上もブログを書いていなかったことに気付く。

理由は簡単で、この時期特有の諸事万端のほか、今年は例年になく雑事ばかりだからだけれど、まず第一には、寸暇さえあれば書き下ろしの原稿に手を加えていたからだった。
何よりもそれを書くことのほうに充実感があるので、ただでさえ雑然たる時期に細切れの雑感を綴る気にはならなかったのだ。

細切れの雑感とは、某政党の幹事長を検察が起訴しないのはおかしいだろうとか、同じ某政党がこの幹事長をめぐる疑惑の調査に対して示したヒステリックな反応への不快感とか、一国の首相なのに腹話術の人形みたいで言葉の軽い男に対する嫌悪感とか、政治がこれだけの異常事態なのに根本的に緊張感が欠けている現状の無気味さとか、暴行を起こした横綱とその師匠がやりたい放題の挙げ句に招いた末路の後味の悪さとか、Kindleはちっともほしいと思わなかったけれど、iPadでなら電子ブックも悪くはなさそうだとか、もっと身近なことでは、大学教員の官僚化ないしモーレツ・サラリーマン化でなければアクティヴィスト化とか儀礼ばかりの国際化とか無内容な会議の長さとか、あれとか、これとか・・・・・・
──しかし、そんな月並みなことを「つぶやいて」何になるのか。

ついでに書いておくと、「つぶやく」一方できちんと仕事をしている人が大半だろうと思うが、「140字書いている暇があったら、本分に即して、ちゃんと論文を書いたらどうなんだ(指導教員に挨拶くらいしろよ)」とつぶやき返したいつぶやきもある。

「つぶやき」もそうなのだけれど、電子メールから何から、インターネットのテクノロジーはひたすら人生を細切れで雑然としたものにするためにだけあるような気がしている。もとより、リサーチの手段としては多大な恩恵を被ってはいるが、それは明確な探索目標があるからで、それなしの即時反射を繰り返していると、その反射そのものが自己目的化しかねない恐ろしさを感じる。
「雑誌」という形態を去年は反省してみた。その雑然さと構築性とのバランスを、メディアが取り戻すことはできるのだろうか。

以上が、一月分のつぶやきのまとめ。
もっと本質的なことは原稿に書いている。3月からは印刷物の形で、少しずつ読んでいただく機会もあるだろう。
春浅いイタリアでの調査を終えたら、終着点も見えるだろうか。

迎春

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2010純.jpg 数年来の懸案だったアビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ』解説本(共著、ありな書房)と書き下ろし(一部は雑誌に発表予定)の単著(みすず書房)の刊行が目標です。

シンポジウム

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事業仕分けの話とか、当日、いろいろ付け足しを考えていたのですが、時間切れでした。
戦うべきは反知性主義。だから、啓蒙も必要なので、短期的戦略としては「メディアの戦争」に参戦することも確かにありうる選択肢かもしれない。
けれど、そこで引き合いに出されるのが新哲学派だとすると、先日の蓮實+浅田対談ではないが、「死ぬために書く」という、それこそ殺し文句のほうがはるかに切実に思える。

「聞くこと」という臨床の知と「聞く耳持たぬ者にも聞かせる」という啓蒙の両者が必要なのだろう。
言葉の通じぬ者に向けて語ること、言葉もたぬ者の言葉を。
言葉なき者の語りを聞くこと。敗者に耳傾けること。
だから、同時代のためにのみ書くのではない。
死者とともに、あるいは、生まれざる者とともに書くこと。

サバイバル(承前)

もっとも「敵」はいたるところにいる。

『中央公論』の蓮實+浅田対談をつい読んでしまう。
既視感あふれるものだが、文字通り、対談自体が現代を19世紀の反復と見なしているのだから、20年前と大差ないものになることは当然なのだ。
現在のメディア状況に対する姿勢はお二人とまったく同意見で、「即時的なレスポンスのやりとりがコミュニケーションだという誤った神話に惑わされてはいけない」という浅田さんに対して、「それを嘲笑すべく、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけじゃないですか」と蓮實さんが応じているのはもっともというほかない。もういっぺん強調しておくと、ドゥルーズは「哲学はコミュニケーションではない」と書いたわけだ。
Twitterをただの雑談と見なせば別にどうということはない。雑談は楽しいし意味もある。しかし、もの書きがただでさえぐだぐだな思考をTwitterで垂れ流しても、それが自然にまとまるものでもないだろう。実際のところ、ぐだぐだの泥沼に沈んでゆくのが眼に見える・・・・・・。
「Twitterであれ何であれ、所詮はメディア戦略じみたもの」と割り切った自意識の持ち主にしたところで、浅田さんの発言にあるように、「ディベートでこう言えば話題になるはずだという計算でずっとやってきた」フランスの新哲学派と同じく、そんなもので「勝ち組」になることに何の思想的意味があるのか。

とはいえ、この対談がどこか引退した賢者たちの高みからの発言に見えてしまうことも否定はできない。大学の制度改革などをめぐる蓮實さんの発言には、かつての東大総長・国大協会長としての過去に由来する、ある種の弁解じみたお気持ちがうかがえないわけではないように思う。「高齢者が金融資産を独占している状況を変えるには退職金制度をやめるしかない」という提案(それ自体はリアリストらしい現実的な政策だけれど)には、「あなたがそれを言いますか」と、苦笑を通り越し、みんなで爆笑してしまったが。
総じてお二人は、ごく常識的な意味で、「愚鈍」となるにはあまりに「聡明」なのだろう。「愚鈍さ」の称揚はある種の「嫉妬」から来るものに思える。ただ、「投瓶通信として書く」「レスポンスを求めないために書く」(浅田さん)、「発信しないために書く」(蓮實さん)、ついには「死ぬために書く」(ブランショ)といった言葉は、しごくまっとうな倫理としてかすかな支えにはなった。

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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